裁判・服役とは? わかりやすく解説

裁判・服役

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 04:34 UTC 版)

阿部定」の記事における「裁判・服役」の解説

詳細は「阿部定事件」を参照 事件から2日後1936年昭和11年5月20日、定は逮捕された。当時横浜で畳店を経営していた兄・新太郎は「自殺でもしてくれればいい」と新聞コメントしている(新太郎は定が受刑中に病死)。姉のトク秋葉と共に何度も面会来ている。 定は事件後、石田事件当時に身につけていた褌を腰に巻きシャツステテコ石田の血で汚れた腰巻を身につけて逃亡していた。石田下着類はいくら探しても見つからないので警察不思議に思っていたが、それらは拘置所市ヶ谷刑務所)に入った定が身につけていた。拘置所で汚いので差し出すように言われた際は「これはあたしと吉さんにおいが染み付いているの、だから絶対渡さない」と大騒ぎしている。予備調書門外不出であったが、何者の手によって外部流出し戻ってきた時は手垢まみれであった[要出典]。 留置から裁判でのやり取りは、定を担当した弁護士によってマスコミに話が流れ当時の社会衝撃与えたその後当時弁護士解任し、新たに竹内金太郎弁護士ついている私選公選かは不明)。1936年11月24日行われた初公判傍聴希望者が深夜から殺到し傍聴抽選時間繰り上げられた。 精神鑑定結果では残忍淫乱症サディズム)と節片淫乱症フェチズム)と結果出た裁判結果事件痴情の末と判定され、定は懲役6年未決勾留120日を含む)の判決を受ける。通常汽車刑務所移送されるが、有名人になっていた定は車で栃木刑務支所送られている。 受刑生活ではラジオ体操存在知らず最初精神的に苦痛を受けるが、刑務所での作業は人の2倍はこなす模範となった。しかし、石田一周忌迎えると癇癪を起こすようになり、泣き喚いた呼ばれても横になったまま、看守の頭にバケツ水をかけるなどの奇行繰り返したその後教誨師説得により徐々に平常心取り戻すようになったこの頃さまざまな思想本を読み日蓮宗帰依した服役していた間に、ファンレター結婚申し込みの手紙がおよそ1万寄せられたという。 1940年昭和15年2月11日、「皇紀紀元2600年」の恩赦により刑期が1/2に減刑1941年昭和16年)に東京拘置所身柄移された後、同年5月17日の朝に出所。姉・トク出迎え拘置所の横にあった保護団体両全会に落ち着いた事件猟奇性により、世間好奇心呼び注目を引くこととなり、定は「世間から変態変態と言われるのが辛い」と逮捕直後からもらしている。出所数日は姉・トクの家に世話になり、その後は元愛人秋葉正義夫妻の家に下宿その頃秋葉保険業転職)、秋葉夫妻実質的な定の保護者となっており、定は秋葉夫妻を「お父さん」「お母さん」と呼ぶようになる

※この「裁判・服役」の解説は、「阿部定」の解説の一部です。
「裁判・服役」を含む「阿部定」の記事については、「阿部定」の概要を参照ください。

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