裁判・服役
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詳細は「阿部定事件」を参照 事件から2日後の1936年(昭和11年)5月20日、定は逮捕された。当時横浜で畳店を経営していた兄・新太郎は「自殺でもしてくれればいい」と新聞にコメントしている(新太郎は定が受刑中に病死)。姉のトクは秋葉と共に何度も面会に来ている。 定は事件後、石田が事件当時に身につけていた褌を腰に巻き、シャツにステテコと石田の血で汚れた腰巻を身につけて逃亡していた。石田の下着類はいくら探しても見つからないので警察も不思議に思っていたが、それらは拘置所(市ヶ谷刑務所)に入った定が身につけていた。拘置所で汚いので差し出すように言われた際は「これはあたしと吉さんのにおいが染み付いているの、だから絶対渡さない」と大騒ぎしている。予備調書は門外不出であったが、何者かの手によって外部に流出し、戻ってきた時は手垢まみれであった[要出典]。 留置から裁判でのやり取りは、定を担当した弁護士によってマスコミに話が流れ、当時の社会に衝撃を与えた。その後当時の弁護士を解任し、新たに竹内金太郎弁護士がついている(私選か公選かは不明)。1936年11月24日に行われた初公判は傍聴希望者が深夜から殺到し、傍聴券抽選時間は繰り上げられた。 精神鑑定の結果では残忍性淫乱症(サディズム)と節片淫乱症(フェチズム)と結果が出た。裁判の結果、事件は痴情の末と判定され、定は懲役6年(未決勾留120日を含む)の判決を受ける。通常は汽車で刑務所に移送されるが、有名人になっていた定は車で栃木刑務支所に送られている。 受刑生活ではラジオ体操の存在も知らず、最初は精神的に苦痛を受けるが、刑務所での作業は人の2倍はこなす模範囚となった。しかし、石田の一周忌を迎えると癇癪を起こすようになり、泣き喚いたり呼ばれても横になったまま、看守の頭にバケツの水をかけるなどの奇行を繰り返した。その後、教誨師の説得により徐々に平常心を取り戻すようになった。この頃、さまざまな思想本を読み、日蓮宗に帰依した。 服役していた間に、ファンレターや結婚の申し込みの手紙がおよそ1万通寄せられたという。 1940年(昭和15年)2月11日、「皇紀紀元2600年」の恩赦により刑期が1/2に減刑。1941年(昭和16年)に東京拘置所に身柄が移された後、同年5月17日の朝に出所。姉・トクが出迎え、拘置所の横にあった保護団体両全会に落ち着いた。事件の猟奇性により、世間の好奇心を呼び注目を引くこととなり、定は「世間から変態、変態と言われるのが辛い」と逮捕直後からもらしている。出所後数日は姉・トクの家に世話になり、その後は元愛人の秋葉正義夫妻の家に下宿(その頃秋葉は保険業に転職)、秋葉夫妻は実質的な定の保護者となっており、定は秋葉夫妻を「お父さん」「お母さん」と呼ぶようになる。
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