1732年合意
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/01 08:02 UTC 版)
「ペン=カルバート境界紛争」の記事における「1732年合意」の解説
それまできちんとした測量が行われていなかったが、このころになって12マイル円が実際には北緯40度線とは交わらず、もっと南側にあること、および、ペンシルバニアの最主要都市であるフィラデルフィアも北緯40度線の南側に位置することが次第に明らかになってきてこの境界問題はさらに複雑になった。双方ともが相手には内緒で自分に有利になるような測量・標識設置を実施しようとした。1722年、ボルチモア男爵はメリーランド議会に対し、セシル郡(メリーランド)の主席判事が森の中で境界を越えたとしてペンシルバニアに逮捕されたことについて苦情を述べた。一方、メリーランドは12マイル円の測量を行ったアイザック・テイラーを域内に侵入したかどで逮捕した。植民達の間にもクレサップ戦争に象徴されるような諍いが発生しており、一体誰に対して納税義務を負っているのかも分からなくなっている状態であり、早期の和解を望む声が大きくなった。1731年、ボルチモア男爵がジョージ2世に対して、正式な境界画定に関してペンが同意するようにとの請願を行った。再び貿易・プランテーション委員会が裁定を行うことになった。ボルチモア男爵は北緯40度線案を主張して譲らず、ペンはフィラデルフィアの南20マイルにすべきだと主張した。 英国王と委員会は、妥協案を提示して両者を納得させ、1732年5月10日、ボルチモア男爵とペン(3人)の両者は合意文書に署名した。内容は、両者は1685年の取り決めを概ね守るが、ペンシルバニアの南側境界線は北緯40度線より南側に移し、フィラデルフィアの南15マイルの地点を通る緯線とする。(デルマーバ)半島はヘンロペン岬を通る緯線と、その中点から北方に伸び12マイル円西側円弧に接する線、この接点から北は12マイル円そのものをたどり、半島横断線中点より伸びる線が12マイル円に接した地点と同じ経度に達したらそこからは東西線に達するまで真北に伸びる、というものだった。この合意書には地図も添付されていたが、フェンウィック島とヘンロペン岬を取り違えており、実際のヘンロペン岬の19マイル南側に半島横断線が引かれることになった。 合意書条文には、新しく委員会を設け、これが合意事項の履行状況を監視し、境界標識を設置するというもので、双方7人ずつメンバーを指名した。 委員会は最初の会合をメリーランドのチェスタータウンで行った。結果的に彼らは4回(ニューキャッスルの裁判所、メリーランド州ヨッパ、そしてフィラデルフィア)会合を持った。彼らは12マイル円に関していくつかの点で合意に至らなかった。まず、メリーランド側は、円は中心を持っていなければならないが、その中心をどこにするか決定する権限をメリーランド側にも与えよと主張した。また、メリーランド側委員は「12マイル」は円周の長さであるとして、ペンシルバニアが主張する「半径12マイル」と食い違った。ボルチモア男爵(メリーランド)は提出した地図において半島横断線の通過点をフェンウィック島と間違えたことに気づき、これを訂正したいと主張した。 紛争解決の権限も与えられていたにもかかわらず、この委員会は最終的に「合意に至らなかった」とする文書に署名しただけだった。この失敗の後、ボルチモア男爵は英国の裁判所に新たな請願を行った。ペンの3人もこれに対抗して請願を行った。ジョージ2世は1738年5月4日に暫定的な境界線を示し、双方に対して論争中の土地に関してはその払い下げを停止する命令を発した。
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