大法官と枢密院議長
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「ヘンリー・バサースト (第2代バサースト伯爵)」の記事における「大法官と枢密院議長」の解説
1770年1月20日に大法官チャールズ・ヨークが急死すると、21日に国璽尚書委員会(定員3名)の第2委員に任命された。そのちょうど1年後である1771年1月21日に枢密顧問官に任命された。さらに23日に大法官に任命され、24日にグレートブリテン貴族であるサセックス州におけるアプスリーのアプスリー男爵に叙された。これに伴い庶民間訴訟裁判所の裁判官から退任した。英国人名事典とオックスフォード英国人名事典によると、チャールズ・ヨークの死去に伴い任命された国璽尚書委員3名は全員能力不足だったが、そのうち能力の最も低いバサーストが大法官に任命されたという。 ノース内閣の一員として常に閣議の決定事項を支持したという。 1775年9月16日に父が死去すると、バサースト伯爵位を継承した。 1776年に貴族院で行われたキングストン=アポン=ハル公爵夫人エリザベス・ピアポント(英語版)の裁判では裁判の期間中に大家令を務めた。 1778年6月の内閣改造で更迭されたが(後任は初代サーロー男爵エドワード・サーロー(英語版))、1779年11月に枢密院議長として再入閣した。以降ノース内閣が1782年に総辞職するまで務めた。
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