虜囚、バルバリア海賊へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 06:11 UTC 版)
「ヤン・ヤンスゾーン」の記事における「虜囚、バルバリア海賊へ」の解説
1618年、ヤンスゾーンはカナリア諸島のランサローテ島でバルバリア海賊に捕らえられてアルジェに連行され、ここで「トルコ人となった」。これ以降、彼はトルコ海賊風に「ムラト・レイース」と名乗るようになった。同時に彼はムスリムとなったが、歴史家の中にはこの改宗が強制的なものだったと推測する者もいる。しかし一方で、その後のヤンスゾーンは同僚のキリスト教徒にイスラームへの改宗を強く勧める熱心な宣教師になっていた。この頃、オスマン帝国はバルバリア海岸を緩い影響下に置くとともに、この地域のムーア人海賊を積極的に支援し、対立するキリスト教国を攻撃させていた。改宗後のヤンスゾーンもこのコルセア海賊の一員として、スレイマン・レイースと組んで地中海で活動した。このスレイマン・レイース(スレメン・レイース)という人物も元はサロモ・ドゥ・フェーンブールという名のオランダ人であり、ヤンスゾーン以前に捕らえられてムスリムとなることを選んだ者だった。彼らの元にはゼイメン・ダンゼケルがついていた[要出典]。しかしヤンスゾーンらは、拠点としていたアルジェがキリスト教諸国と和平を結んでしまったため、活動の場を失った。1619年にスレイマン・レイースが大砲の弾に当たり戦死すると、ヤンスゾーンは大西洋岸のサレに移り、独立したバルバリア海賊として活動し始めた。
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