虜囚、解放と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/26 14:05 UTC 版)
しかし、安史の乱が勃発、至徳元載(756年)、王維は出奔した玄宗の後を追いかけたが、追いつけず、隠れていたところを、安禄山の軍に囚われる。この時に病気を偽ったが、洛陽に移され、強要されて安禄山政権の給事中に任じられる。この時、梨園の楽人たちが安禄山のために演奏させられ、楽人の1人である雷海青が殺されたのを聞き、嘆いて、これを詩に読む。至徳2載(757年)、唐軍により洛陽が奪還され、陳希烈らとともに帰順する。しかし、玄宗に代わって皇帝となった粛宗に、安禄山に仕えた罪を厳しく問われた。弟の王縉らの取り成しと、先の詩がすでに伝えられたことにより、太子中允に降格されただけで許された。 その後、出家を願い出たが、粛宗の許可が得られなかった。この頃、杜甫に励ましの詩を贈られる。乾元元年(758年)、集賢学士に昇進する。同年さらに、中書舎人、再び給事中へと累進した。この頃、杜甫・賈至・岑参と詩を詠じあう。上元2年(761年)、尚書右丞となり、飢饉の際に自分の職田の粟を飢民のために施すことを求めた上書や自分の引退と引き替えに、蜀州刺史にされていた王縉を中央に帰すことを求める「躬を責め弟を薦むる表」が残っている。そのため、王縉は左散騎常侍に任じられ、中央に返り咲いた。同年、死去する。臨終の際に、鳳翔にいた王縉や友人たちに別離の書を書き、突如筆を置いて絶息したと伝えられる。 王維の死後、弟の王縉により詩は編集され、代宗に献上された。代宗は王維の詩を絶賛し、これを受けている。
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