興宣大院君の失脚
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1873年11月、李恒老の門人で衛正斥邪論者の崔益鉉が戸曹参判に任命されると、辞職上疏を呈して、興宣大院君の施政を攻撃し、その国政への不関与を強く求めた。崔益鉉自身は流罪に処せられたが、高宗・閔妃夫妻と閔升鎬(閔妃の兄)らはこの機会を利用して、大院君を退陣に追い込んだ。この政変により、王妃の一族である驪興閔氏による勢道政治(閔氏政権)が始まり、閔氏は老論を奉じたので興宣大院君の腹心(大院君派)や南人・北人の勢力はおさえられ、ふたたび老論派の勢力が増大した。閔氏政権は、大王大妃の一族である豊壌趙氏の趙寧夏ら名門の老論と結んで勢力を固め、王宮守備のために武衛所を新設して大院君の反撃を封じようとした。 閔氏政権は、1876年に日本とのあいだに日朝修好条規を結んで開国し、開化政策に転じた。このような開国・開化に最も強硬に反対したのが衛正斥邪派であった。1881年には年初から中南部各道の衛正斥邪派の在地両班は漢城府に集まって金宏集(のちの金弘集)ら開化政策を進める閣僚の処罰と衛正斥邪策の実行を求める上疏運動を展開した(辛巳斥邪上疏運動)。閔氏政権は、上疏の代表であった洪在鶴を死刑に処したほか、上疏運動の中心人物を流罪に処するなど、これを厳しく弾圧した。やがて、衛正斥邪派は大院君をリーダーと仰ぐようになり、この年の夏には、安驥泳らが閔氏政権を倒したうえで大院君の庶長子(李載先)を国王に擁立しようというクーデター計画が発覚している。安驥泳と李載先はこの年のうちに刑死しており、大院君派の勢力は大きく後退した。
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