興宣大院君の失脚とは? わかりやすく解説

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興宣大院君の失脚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 04:21 UTC 版)

大院君政権」の記事における「興宣大院君の失脚」の解説

1873年11月李恒老の門人衛正斥邪論者崔益鉉戸曹参判に任命されると、辞職上疏呈して興宣大院君施政攻撃し、その国政への不関与強く求めた崔益鉉自身流罪処せられたが、高宗閔妃夫妻閔升鎬閔妃の兄)らはこの機会利用して大院君退陣追い込んだ。この政変により、王妃一族である驪興閔氏による勢道政治閔氏政権)が始まり閔氏は老論を奉じたので興宣大院君腹心大院君派)や南人北人勢力おさえられ、ふたたび老論派勢力増大した閔氏政権は、大王大妃一族である豊壌趙氏趙寧夏名門の老論と結んで勢力固め王宮守備のために武衛所を新設して大院君反撃封じようとした。 閔氏政権は、1876年日本とのあいだに日朝修好条規結んで開国し、開化政策転じたこのような開国開化に最も強硬に反対したのが衛正斥邪派であった1881年には年初から中南部各道の衛正斥邪派在地両班漢城府集まって金宏集(のちの金弘集)ら開化政策進め閣僚処罰衛正斥邪策の実行求め上疏運動展開した辛巳斥邪上疏運動)。閔氏政権は、上疏の代表であった洪在死刑処したほか、上疏運動の中心人物流罪処するなど、これを厳しく弾圧した。やがて、衛正斥邪派大院君リーダーと仰ぐようになり、この年の夏には、安驥泳らが閔氏政権倒したうえで大院君庶長子李載先)を国王擁立しようというクーデター計画発覚している。安驥泳と李載先この年のうちに刑死しており、大院君派の勢力大きく後退した

※この「興宣大院君の失脚」の解説は、「大院君政権」の解説の一部です。
「興宣大院君の失脚」を含む「大院君政権」の記事については、「大院君政権」の概要を参照ください。

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