興宣大院君の鎖国政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 00:54 UTC 版)
「高宗 (朝鮮)」の記事における「興宣大院君の鎖国政策」の解説
興宣大院君は安東金氏の勢道政治を打破し、国内改革を行っていたが、迫り来る西洋の列強諸国に対する対外策はあくまでも鎖国・攘夷であり、決して国交を結ぼうとしなかった。また、カトリックの弾圧を繰り返し行った。1866年にフランス人神父らを殺害(丙寅邪獄)すると、その報復としてフランス艦隊が軍艦7隻でもって江華島を占領したものの、これを追い払った(丙寅洋擾)。 また、同時期に通商を求めてきた商船ジェネラル・シャーマン号も焼き討ちして沈めてしまう(ジェネラル・シャーマン号事件)。この抗議として1871年、アメリカ軍は賠償と通商を求め、軍艦5隻でもって江華島を占領するが(辛未洋擾)、大院君は交渉に応じず、アメリカ軍も1か月で引き上げざるを得なかった。
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