興宗寺のはじまり 覚如上人準由緒寺とは? わかりやすく解説

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興宗寺のはじまり 覚如上人準由緒寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/01 05:18 UTC 版)

興宗寺 (福井市)」の記事における「興宗寺のはじまり 覚如上人準由緒寺」の解説

興宗寺開基は行如である。 「三河念仏相承日記」によると高田顕智教え受けた円善(三河和田)の弟子であった。同じ円善の弟子としては真宗三門徒派如道越前大町大町道場、後の大町専修寺)・信性(越前和田和田道場、後の和田本覚寺)・専精越前大野専光寺)などがあり、念仏すすめていた。行如は「三河念仏相承日記」に「越前長畝郷田島」とあり、今の坂井市坂井町田島あたりに拠点を置き、伝道従事したという。如道大町道場開いたのは1290年であり、行如もその頃道場開いた考えられる。 行如は高田門徒支流属するが、本願寺覚如とも接触があった。覚如大町道場をたずね(1311年応長元年)、ここに二十日余り滞在したその折に行如・如道・信性は覚如から教えを受け、さらに覚如から「教行信証」を伝授され宗祖の鏡御影かがみのごえい)も開帳するなど勧化務めたこともあり、行如等は本願寺となった。 行如は覚如法脈を受け、本願寺良好な関係を保ち続けた本願寺に残る文書慕帰絵第十巻」には「凡又、聞法血脈名字を釣輩は、有昭・善教・覚浄・教円・乗智・成信・行如・承入・唯縁・道慶・寂定等なり。」とあり、覚如の「聞法血脈」に含まれる重要な人物一人として行如が挙げられている。 興宗寺寺号初め文献見えるのは、「反古裏書」の藤島超勝寺創立由緒を語る部分である。「彼円善の弟子越前国大町如道ト云者アリ田嶋興宗寺行如、和田信性アヒトモニ、覚如上人在国ノ中、御勧化ヲウケラレシ法徒也。」との記述があり、覚如から教えを受ける1311年応長元年以前かその直後あたりから興宗寺寺号称してたらしい覚如親鸞廟堂に「本願寺」の号を付したのが1312年正和元年)から1321年元亨元年)の間のこと。また了源建てた寺に覚如興正寺(のち佛光寺改める)と名付けたのが1323年元亨3年)である。そのことから言えば本願寺系としてはかなり早い段階での寺号呼称であり、覚如から寺号賜ったという言い伝えにも頷けるものがある。道場開いた頃から数えると720余年歴史があり、またかなり早い段階での寺号呼称から考えても、本願寺系の寺院としてはかなりの古刹である。 興宗寺は「タジマ」の地にあった為、但馬田島田嶋興宗寺呼ばれていた。 その後行円・行祐・円祐・円慶と次第され、現在は第二十三世釋琢生が住職をしている。「元治由緒書」や「文政由緒書によれば、行如は北条時政の孫(北条時房の子)である北条時村北条相模次郎時村であったという。そのためか興宗寺住職北條姓を名乗っている。

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