李鴻章の対日観の曲折
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一方、日清間には1871年9月13日に日清修好条規が締結された。李鴻章は対日交渉にあたり、清国側が意図した目的をほぼ満足させ、柳原前光を代表とする全権団にも好感を抱いていた。しかし1873年に入ると、再び日本の朝鮮侵攻への懸念を表明するようになる。李鴻章が1873年2月26日に総理衙門に提出した書簡には、日本が高麗(朝鮮)に朝貢を要求していると記されており、これが八戸事件を指しているのか、書契問題の紛糾を指しているのかはっきりしない。その後日清間には台湾出兵問題が発生するが、そのさなかの1874年7月には欽差大臣沈葆楨が総理衙門と李鴻章に、フランス人から聞いた意見として、日本が台湾の後、高麗にも出兵しようとしているという情報を伝えている。総理衙門は八戸事件の時と同様、速やかにこれを朝鮮に伝え、仏・米と直ちに条約を締結して日本に対抗することを勧めた。この密咨は朝鮮政府に衝撃を与え、癸酉政変後に排日政策を放棄させる一因となる。八戸事件の際もそうであったように、清国側は英仏米からの最新情報の真偽を確かめることなく、倭寇や秀吉の朝鮮出兵の歴史を重視して、潜在的に日本は朝鮮侵略の意図を持っており、清に対する脅威なりうると判断していることがうかがえる。なおこの密咨への回答では、朝鮮側は仏米との条約は望んでおらず、むしろ清から仏・米・日各国へ働きかけを行うよう要請しているが、清側はこれに応じることはなかった。
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