李鴻章の対日観の曲折とは? わかりやすく解説

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李鴻章の対日観の曲折

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 20:57 UTC 版)

八戸事件」の記事における「李鴻章の対日観の曲折」の解説

一方日清間には1871年9月13日日清修好条規締結された。李鴻章対日交渉にあたり清国側意図した目的をほぼ満足させ、柳原前光を代表とする全権団にも好感抱いていた。しかし1873年に入ると、再び日本朝鮮侵攻への懸念表明するうになる李鴻章1873年2月26日総理衙門提出した書簡には、日本高麗朝鮮)に朝貢要求していると記されており、これが八戸事件指しているのか、書契問題紛糾指しているのかはっきりしないその後日清間には台湾出兵問題発生するが、そのさなかの1874年7月には欽差大臣沈葆楨総理衙門李鴻章に、フランス人から聞いた意見として、日本台湾の後、高麗にも出兵ようとしているという情報伝えている。総理衙門八戸事件の時と同様、速やかにこれを朝鮮伝え、仏・米と直ち条約締結して日本対抗することを勧めた。この密咨は朝鮮政府衝撃与え癸酉政変後に排日政策放棄させる一因となる。八戸事件の際もそうであったように、清国側英仏米からの最新情報真偽確かめことなく倭寇秀吉朝鮮出兵歴史重視して潜在的に日本朝鮮侵略意図持っており、清に対す脅威なりうると判断していることがうかがえる。なおこの密咨への回答では、朝鮮側は仏米との条約望んでおらず、むしろ清から仏・米・日各国働きかけを行うよう要請しているが、清側はこれに応じことはなかった。

※この「李鴻章の対日観の曲折」の解説は、「八戸事件」の解説の一部です。
「李鴻章の対日観の曲折」を含む「八戸事件」の記事については、「八戸事件」の概要を参照ください。

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