李鴻章の来日とは? わかりやすく解説

李鴻章の来日

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/18 05:21 UTC 版)

李鴻章狙撃事件」の記事における「李鴻章の来日」の解説

1895年3月19日日清戦争後下関講和会議出席するために、ドイツ船で天津発した全権大臣李鴻章とその甥で養子李経方は、伍廷芳随員125とともに福岡県門司港(現、北九州市)に到着した73歳李鴻章外国訪問したのは、これが初めてであり、そのこと欧米メディアで大きく報じられた。翌3月20日使節団対岸本州赤間関(現、下関市)に上陸し同地料亭藤野春帆楼)において、日本全権伊藤博文内閣総理大臣および陸奥宗光外務大臣との間で全権委任状持っていることを互いに確認し講和交渉始まった第1回交渉)。 前回広島での講和交渉では、日本側は清国使節全権戸部侍郎張蔭桓湖南巡撫邵友濂2人)の持参した委任状問題視したのであったが、これは国際的には、むしろ不評買っていた。広島での清国使節全権委任証明するのに瑕疵があったのは確かではあるが、アヘン戦争以来清国外国結んだ膨大な数の条約にはそのような事例数多くあり、また、使節資格問題になることはきわめてであって諸外国からは日本側が露骨に交渉引き延ばしその間軍事行動展開しているとみられたからであった講和のための使節を、大本営のある広島呼びつけるかたちにしたことを日本傲慢ととらえる向きもあったのである李鴻章らは、会談が済めば船に帰って船中泊することとなっていたが、日本側は、それでは不便であろう気を遣い赤間関浄土宗寺院、関亀山引接寺一行宿舎供した春帆楼での条約交渉は、前後7回におよんでいるが、20日第1回交渉李鴻章日本近代化進展高く評価し、その指導者としての伊藤博文実績賞賛し、「今次日清戦で清国長い間迷夢日本によって破られたことに感謝する」と述べたうえで、「今後西洋列強圧力対し日清両国兄弟のごとく連携しなければならない」と語るなど終始和やかなようすで交渉始まった陸奥宗光は、李鴻章印象として『蹇蹇録』に「古稀上の老齢似ず容貌魁偉言語壮快で、人を圧服するに足りる」ものがあり、「さすがに清国当世一人物に恥じず」と記している。ここで陸奥は「時間はたっぷりあるのでゆっくりと話し合おう」と清国側呼びかけた。しかし、本人内心ヨーロッパ諸国干渉気がかりで、実は一刻早い講和成立願っていた。李鴻章列強干渉動きに気づけば、交渉引き延ばしかかったり、あるいは打ち切って清国引き上げてしまうことも考えられたので、決し急いではいないというポーズをあえてとったのである李鴻章第1回目交渉で、日清間の休戦強く望んだ日本側は3月21日第2回交渉で、休戦のための4条件提示したが、これは大沽天津山海関保障占領などを含んでおり、清国にとってあまりに苛酷なのだったため、李鴻章前日休戦申し入れ撤回した日本はこれに対し講和条件先議する件について清国側3日間の猶予あたえた

※この「李鴻章の来日」の解説は、「李鴻章狙撃事件」の解説の一部です。
「李鴻章の来日」を含む「李鴻章狙撃事件」の記事については、「李鴻章狙撃事件」の概要を参照ください。

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