李鴻章の来日
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1895年3月19日、日清戦争後の下関講和会議に出席するために、ドイツ船で天津を発した全権大臣李鴻章とその甥で養子の李経方は、伍廷芳ら随員125名とともに福岡県門司港(現、北九州市)に到着した。73歳の李鴻章が外国を訪問したのは、これが初めてであり、そのことは欧米のメディアでも大きく報じられた。翌3月20日、使節団は対岸の本州赤間関(現、下関市)に上陸し、同地の料亭藤野楼(春帆楼)において、日本側全権の伊藤博文内閣総理大臣および陸奥宗光外務大臣との間で全権委任状を持っていることを互いに確認し、講和交渉が始まった(第1回交渉)。 前回の広島での講和交渉では、日本側は清国使節(全権は戸部侍郎の張蔭桓と湖南巡撫の邵友濂の2人)の持参した委任状を問題視したのであったが、これは国際的には、むしろ不評を買っていた。広島での清国使節が全権委任を証明するのに瑕疵があったのは確かではあるが、アヘン戦争以来、清国が外国と結んだ膨大な数の条約にはそのような事例は数多くあり、また、使節の資格が問題になることはきわめて稀であって、諸外国からは日本側が露骨に交渉を引き延ばし、その間に軍事行動を展開しているとみられたからであった。講和のための使節を、大本営のある広島に呼びつけるかたちにしたことを日本の傲慢ととらえる向きもあったのである。 李鴻章らは、会談が済めば船に帰って船中泊することとなっていたが、日本側は、それでは不便であろうと気を遣い、赤間関の浄土宗寺院、関亀山引接寺を一行の宿舎に供した。 春帆楼での条約交渉は、前後7回におよんでいるが、20日の第1回交渉で李鴻章は日本の近代化の進展を高く評価し、その指導者としての伊藤博文の実績を賞賛し、「今次の日清戦で清国が長い間の迷夢を日本によって破られたことに感謝する」と述べたうえで、「今後は西洋列強の圧力に対し、日清両国は兄弟のごとく連携しなければならない」と語るなど終始和やかなようすで交渉が始まった。陸奥宗光は、李鴻章の印象として『蹇蹇録』に「古稀以上の老齢に似ず容貌魁偉言語壮快で、人を圧服するに足りる」ものがあり、「さすがに清国当世の一人物に恥じず」と記している。ここで陸奥は「時間はたっぷりあるのでゆっくりと話し合おう」と清国側に呼びかけた。しかし、本人は内心ヨーロッパ諸国の干渉が気がかりで、実は一刻も早い講和成立を願っていた。李鴻章が列強の干渉の動きに気づけば、交渉を引き延ばしにかかったり、あるいは打ち切って清国に引き上げてしまうことも考えられたので、決して急いではいないというポーズをあえてとったのである。 李鴻章は第1回目の交渉で、日清間の休戦を強く望んだ。日本側は3月21日の第2回交渉で、休戦のための4条件を提示したが、これは大沽・天津・山海関の保障占領などを含んでおり、清国にとってあまりに苛酷なものだったため、李鴻章は前日の休戦申し入れを撤回した。日本はこれに対し、講和条件を先議する件について清国側に3日間の猶予をあたえた。
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