新使節李鴻章と彼を取りまく状況
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「下関条約」の記事における「新使節李鴻章と彼を取りまく状況」の解説
北洋艦隊壊滅後まもなく、清国の朝廷は李鴻章を全権大臣として日本に派遣することを決定した。 李鴻章は内閣大学士首揆、すなわち他国にあっては首相にも相当する政界の重鎮であった。しかし、旅順陥落以降、李鴻章は直隷総督および北洋大臣の権限を解かれており、軍事指揮権を失っていた。ところがここに至って、旅順につづき威海衛でも敗れ、北洋艦隊を失い、さらに、広島での交渉も不首尾ということになると、皇帝も主戦派も打つ手がなくなってしまった。2月10日に軍機大臣を呼び寄せて敗戦への落胆を口にした光緒帝は、善後策を諸大臣に諮問したところ、それまで激しく主戦論を唱えてきた翁同龢もなすすべがなく、大臣たちの一致した見解では李鴻章を日本に派遣して交渉の任にあたらせるほかの方途なしという結論に至った。 これを受けた清廷は、2月22日、李鴻章を天津より北京に呼び寄せて御前会議を開き、和戦についての協議を開始した。1月の日本における御前会議のようすなどがおぼろげながら清国に伝わってくると、清の識者の間では領土割譲なくして講和は不可能であるとの判断がしだいに広がっていった。しかし李鴻章は、領土割譲の件については、国内的な規定も整っておらず、処理も難しいとして、敢えて承知しないという見解を表明し、翁同龢もこれには賛成した。軍機大臣の徐用儀と孫毓文(中国語版)は割地に応じなければ日本との和平交渉はまとまらないと述べたが、李鴻章は交渉がまとまらなければ帰国するだけであるとの決意を示した。そのうえで主戦論者の翁同龢に対し、対日講和交渉への同行を求めた。翁は、洋務派でもない自分は外交にも通じていないとして使節同行を辞退した。李鴻章は、同行辞退の理由をもって政敵であった翁同龢の外交に関する発言を封じようとした。 李鴻章はさらに、イギリスとロシアに援助を求めるべきであると提案し、英・仏・独・露の公使館を赴き、連絡を取ろうとしたがいずれも要領を得なかった。列国の公使たちも領土割譲は不可避であるとの認識に立っており、ドイツ公使シュベンツベルグなどは、割譲を拒むならば北京を放棄して内陸部に遷都し、徹底抗戦するほかないと具申している。徹底抗戦は、少数民族である満洲族政権からすれば大いに危険がともない、太平天国の乱のような内乱を引き起こす怖れさえあった。清国上層部で主戦論を唱えていた人々も、前線に出陣して勝てる見込みはないことが明白であり、その多くは沈黙した。ただし、ナポレオン戦争のときのロシアにならって「都城を空にする」策を「良法」とし、それを上奏する者もあった。とはいえ、遷都に対しては反対意見が大勢を占めたのであった。 割地に応じて講和を実現するか、それを拒否して遷都してでも戦争を継続するかで議論は延々とつづいた。李鴻章はこの時期あえて主戦論を唱え、「領土譲与やむなし」の世論が浸透するのを待ち、そのうえで、3月2日、領土の一部割譲は不可避であること、戦況は緊迫しており、ぜひとも講和を結ばなければならないことを上奏した。その際、李は、安史の乱以後、河西回廊を吐蕃に奪われたのちも唐朝はなお「中興」と呼ばれる時代をつくったことや、燕雲十六州を遼に割譲してもなお全盛時代を築いた宋(北宋)朝の例、さらには普仏戦争の事例をも引いて、「奪われた土地は奪い返すことができる」と説いた。 翌3月3日、北京紫禁城内で、西太后臨席のもと軍機大臣が参集して会議が開かれ、そのなかで李鴻章に割地交渉の許可を与えることを認めた。そのなかには、李鴻藻や翁同龢といった彼の政敵のすがたもあった。これにより、李鴻章は日本に対し交渉の場で領土割譲について認めたとしても「国賊」のそしりを免れることができたのである。3月4日、李は西太后と光緒帝に正式に訓令を受け、領土割譲、賠償金支払い、朝鮮の独立承認の3条件で講和交渉に臨むこととなった。
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