プロパガンダに関する見解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 09:47 UTC 版)
「アッツ島玉砕」の記事における「プロパガンダに関する見解」の解説
前述のように軍部は当初『アッツ島玉砕』が果たして戦意高揚に結びつくのか疑問視していた。しかし藤田は絵画は文脈によって受け取られるものなのだという表現のメカニズムを知り尽くしていた。また藤田は軍部を上回るプロパガンティストでもあり、制作時に喧伝されていたアッツ島守備隊を賞賛し、神格化する文脈に『アッツ島玉砕』を乗せていくようメディアを上手く利用する。前述した斎戒沐浴して制作に臨み、自らが描く絵のあまりのもの凄さに線香をあげたという談話などや、月命日にあたる8月29日に絵が完成したという報道は、藤田のメディアコントロールの一環である。美術史研究者の河田明久(千葉工業大学教授)は、『アッツ島玉砕』完成日をアッツ守備隊の月命日である29日に選び、さらにそれを新聞に報道させたうえで、作品を陸軍に献納して下賜を受けることで軍公認の作品とした藤田の戦略性を指摘。『アッツ島玉砕』は芸術作品でもあり、プロパガンダでもあったとの見解を示している。 殉教をむごたらしく描くキリスト教絵画がその状況を招いた迫害者に対して非難の矛先が向かうように、『アッツ島玉砕』で描かれた玉砕した兵士たちは単なる戦死者としてではなく、大義に殉じた英雄として称賛されていわば殉教者のごとく見なされ、アメリカに対する敵愾心を燃え上がらせた。このような文脈で鑑賞される限り、描かれた凄惨な光景は兵士たちを貶めることなく、むしろその聖性を高める効果をもたらした。 文脈によって絵が受け取られていくことは、戦後になって観客からの『アッツ島玉砕』の受け取られ方が180度変わってしまったという点に繋がっていく。戦時中の文脈が人々の観念の中から消えてしまうと、観客は反戦のメッセージを受け取るようになる。また藤田が『アッツ島玉砕』で描いたあからさまな凄惨画に意味を与えるのは、見られる際の時代であり、政治状況であることを示してもいる。
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