プロパガンダ映画
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プロパガンダ映画(プロパガンダえいが、英語: propaganda film)は、プロパガンダ(政治的宣伝)を目的とした映画の総称であり、多くの場合、ドキュメンタリー映画に分類される。特に、観客に政治的な思想を植えつけることを目的とする。ノンフィクションであるとは限らず、娯楽作品も多く見受けられる。
概要
1920年代、ソビエト連邦において、プロパガンダを目的とした映画が多く製作された。
1940年代の第二次世界大戦期にアメリカでは感動的な戦争映画が数多く製作され、これによって敵愾心(てきがいしん)・愛国心を鼓舞した。実際に、これはアメリカ合衆国とアメリカ連合国の間にあったわだかまりを消し、アメリカをひとつにすることに成功した。
プロパガンダを目的として利用された最初の映画のひとつは、D・W・グリフィス監督の『國民の創生』であると考えられる。とはいっても、これは最初からその目的で製作されたわけではない。
アメリカで第二次世界大戦中に作られた映画『カサブランカ』が典型的なように、戦意高揚を目的としたプロパガンダと娯楽的な要素の厳密な境界は存在しない[1]。
関連作品
- 國民の創生(1915年)
- 戦艦ポチョムキン(1925年)
- 十月 (映画)(セルゲイ・エイゼンシュテイン、グリゴリー・アレクサンドロフ監督、1928年) - 十月革命のプロパガンダ映画[2][3]
- サーカス(1936年)制作·監督:グリゴリー·アレクサンドロフ、モノクロ94分、ソ連·モスフィルム制作
- なぜ我々は戦うのかシリーズ (1941年 - 1945年)
- 逃走迷路 -Saboteur(1942年)
- カサブランカ(1942年)
- ハワイ・マレー沖海戦(1942年)
- サハラ戦車隊 -Sahara(1943年)
- 陸軍(1944年)
- 私の日本 -My Japan(1945年)
- サウンド・オブ・ミュージック(1965年)
- 第二次世界大戦を描いた短編映画のリスト
- プロパガンダアニメ
- 日本のプロパガンダアニメ
- オモチャ箱シリーズ第3話 絵本一九三六年(1934年)
- 桃太郎の海鷲(1943年)
- 桃太郎 海の神兵(1945年)
出典
- ^ 佐藤[1999], p.180.
- ^ 梶川伸一「レーニン支配と「赤色テロル」」史学 82巻4号、2014 年、p.1-2. 三田史学会、慶應義塾大学
- ^ セベスチェン 2017, p. 上34.
参考文献
- 『現代メディア史』、佐藤卓己、岩波書店、1999年9月28日 ISBN 4000260154
- セベスチェン, ヴィクター 三浦元博・横山司訳 (2017), レーニン 権力と愛, 白水社
- 梶川伸一「レーニン支配と「赤色テロル」」史学 82巻4号、2014 年、p.1-2. 三田史学会、慶應義塾大学
関連項目
外部リンク
プロパガンダ・映画
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若い特攻隊員たちは、ナチスが量産した様々なプロパガンダ映画(ファイト・ハルラン監督の『コルベルク』等)を見せられた。戦局が厳しくなればなるほど、ナチスは国民へのプロパガンダに注力した。それにより「ドイツ人としての意識」は高揚させられたが、実際の攻撃には何のヒントも与えられなかった。熟練のパイロットは多くが戦死し、残った者もジェット戦闘機の訓練に回され、有益な経験を交換し合うこともできず、特攻隊員たちは飛行士として未熟だった。 エルベ特攻隊は、「十に一」程度の生還可能性はあったが、周囲は特攻隊員が戦死することを前提に用意を整えていた。例えば隊員の一人エーリッヒ・クロイルが、指揮官に「最初の攻撃で失敗したら、もう一度出撃しましょうか」と尋ねると、指揮官は 二度目はない。これは「自己犠牲攻撃」なのだ。私はそう言ったはずだ! と声を荒らげた。 出撃時には、無線から絶えずナチスの「勇壮なマーチ」が聞こえており、「ドイツ、ドイツ、世界に冠たる……」とドイツ国歌も流れていた。その合間には女性の声が「空襲で焼かれた母を、子を思え!」等と、連合国軍への報復を訴えていた。一方で隊員側は、機体軽量化として送信機も外されており、声を届けることは出来なかった。無線を傍受していたアメリカ軍は、普段流れないナチスの国家や愛唱歌、さらには興奮した女性が「ぞっとするような金切り声」で、「祖国を救え!」「最後までドイツは戦うのだ!」「やつらに復讐を!」と叫ぶ音声を聞き取っていた。 エルベ特攻隊に動員されたのは約180機だが、故障や燃料不足等のため、実際に離陸できたのは150機あまりだった。だが、ヨアヒム・ヴォルフガング・ベームのように不時着したり、主脚の故障等で帰投する機が相次いだため、実際に敵に接触できた機は約100機と見られる。ドイツ側の戦闘報告は次のようになっている。 当戦闘機部隊は四月七日、米軍の四発爆撃機部隊に対し、決死の勇気をもってした自己犠牲攻撃を敢行し、米軍側は甚大な損失を被った。体当たり攻撃で六十機以上の爆撃機が撃墜された。 特攻隊の中の未帰還者数(犠牲者数)については、77人と記録されている。 これに対し米軍側の報告では、撃墜された爆撃機は17機であり、このうち体当たり攻撃で墜落したと明記されているのは8機である。損傷して帰還した機は147機で、このうち修理困難と分類されたのは109機だったが、体当たりによる損傷か否かは分かっていない。犠牲者数も、米軍側の報告では約40人であり、ドイツ側の報告より低めに推計している。 ドイツ側は戦果を誇張していると見られるが、ドイツ指導部は失望していた。例えばゲッベルスは、7日の日記にこう記している。 本日、侵入してきた敵機に対し、わが方の体当たり戦闘機部隊が初めて動員された。成果は確定していないが、期待していたほどは高くなかったようだ。 米軍側の損害は、爆撃機・戦闘機合わせて2000機からすれば、僅かだった。全体としては隊列が多少乱れただけで、爆撃機の編隊は進み、空襲は予定通りに進んだ。その間、迎撃するドイツ機は無かった。エルベ特攻隊によって、ドイツ側は「組織的な迎撃」ができる戦力を出し尽くしていた。
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