占守郡域及び新知郡域などへのロシア人の南下
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一方、ロシア人はカムチャツカ半島を征服して千島を伺っており、千島アイヌの領域である占守郡域や新知郡域の島々も武力で征服しながら南進した。 占守郡域 1711年8月、ダニラ・ヤコヴレヴィチ・アンツィフェーロフ(Данила Яковлевич Анцыферов)とイワン・ペトロヴィチ・コズイレフスキー(ロシア語版)(Иван Петрович Козыревский)が千島最北端の占守島(シュムシュ島)と二番目の島幌筵島(パラムシル島)に上陸し、住民にヤサーク(毛皮税)の献納を求めるが拒絶された。1713年、コズイレフスキーは和人・サニマを伴い再び占守島と幌筵島に上陸した。コズイレフスキーは住民の激しい抵抗を受けるも、戦いの末にこれを征服し、ヤサークの献納とロシアの支配を認めさせた。このとき、幌筵島に交易に来ていた択捉島のアイヌ人シタナイが巻き込まれ、コズイレフスキーに連れ去られた。同年、コズイレフスキーは温禰古丹島(オンネコタン島)も襲撃し帰国した。1745年スロボーチコフが温禰古丹島に上陸、和人10名を発見しカムチャツカに連行。1747年には、ロシア正教の修道司祭イオアサフが、布教のため千島列島北部へ渡り、占守島および幌筵島のアイヌ208人を正教に改宗させた。後に占守島には露米会社によって居住地が開設されている。 新知郡域 1721年、第6島新知島(シムシル島)にロシア人が到達した。千島アイヌたちはロシア化され、1805年6月、択捉島シベトロに上陸し幕吏に捕らえられたラショワ島アイヌの有力者マキセン・ケレーコツらの服装もロシア風であった。1831年~1832年には露米会社によってアレウトやロシア人が派遣され、シムシル島北端のプロトン湾に新移住地開設。 1738年には、第二次ベーリング探検隊の分遣隊が千島列島沿いに南下して、本州沖まで到達し地図を作製した。 1779年には、ロシア皇帝のエカテリーナ2世が千島列島での徴税を禁止している。 1868年露米会社が廃止され居住地の活動停止。アレウトたちは樺太・千島交換条約の猶予期間満了前年(1877年)の移送まで残留していた。カムチャツカに移住したアイヌについてはロシアにおけるアイヌの項も参照。 得撫郡域以南 1766年から1769年にかけて、イワン・チョールヌイ(ロシア語版)(Иван Чёрный)が国後場所に侵入し、ロシア人として初めて得撫島(ウルップ島、後の得撫郡)に到達し、周辺のアイヌから毛皮の取り立てや過酷な労働を課し、得撫島で多数の女性を集めてハーレムを作った。しかし1772年に、得撫島で択捉アイヌと羅処和アイヌが蜂起し、ロシア人21名が殺害され、残りはカムチャツカ半島へ撤退した。その後も1776年に、ロシアの毛皮商人による殖民団が得撫島へ一時的に居住したが、7年後の1783年に撤退した。1786年最上徳内ら幕吏の調査の際、択捉島に三名の在留ロシア人(イジョ、サスノスコイ、ニケタ)がおり、イジョらは津波で打上げられたナターリア号救援のため派遣されたパーヴェル号の乗員で、ロシア人同士の争いのため得撫島に取残されアイヌの助けで択捉島に移ったという。彼らのうち2名が国後島に赴き取調べの後千島経由の帰国勧告を受け、長崎からの送還を希望し最後まで残留していたイジョが択捉島から帰国したのは1791年春であった。1795年夏、ケレトフセ(ズヴェズダチェトフ)ら40名の入植者を派遣。幕吏の富山や深山の調査の際、在留者17名がいたという。しかし、食料は択捉以南のアイヌとの交易に依存しており、1801年以降択捉以南のアイヌの得撫島渡航と新知島以北の千島アイヌの択捉島への渡航を禁止され、1805年在留ロシア人は得撫島から帰国した。1828年露米会社がロシア人とアレウトを派遣し得撫島東岸の小船湾に拠点を置いたが、クリミア戦争中の1855年9月英仏艦隊が得撫島小船湾の居住地を一時的に占領、残留アレウトも1877年得撫島から帰国した。
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