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岡田菊三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/05 05:18 UTC 版)

岡田 菊三郎(おかだ きくさぶろう、1897年明治30年)1月13日[1][2] - 1985年昭和60年)1月22日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将

経歴

京都府出身[1][2][3]。岡田安次郎の二男として生まれる[1]大阪陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業[1][4]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第9連隊付となる[1][4]台湾歩兵第2連隊付などを経て、1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業した[1][3]

1928年(昭和3年)3月、歩兵第9連隊中隊長に就任[1]。1929年(昭和4年)3月、独立守備隊司令部付となり、歩兵第9連隊副官、第16師団参謀関東軍司令部付(満州国軍軍事顧問)を務め、1933年(昭和8年)12月、歩兵少佐に進級[1]。1935年(昭和10年)1月、陸軍省整備局課員となり、同年3月、内閣資源局課員を兼務した[1]。1937年(昭和12年)11月、歩兵中佐、1939年(昭和14年)8月、歩兵大佐に昇進した[1]

1939年9月、支那派遣軍司令部付に発令され日中戦争に出征[1][2][3]。1940年(昭和15年)3月、整備局戦備課長に就任[1][2][3]。1943年(昭和18年)3月、第15師団参謀長に発令され中国戦線に出征し、その後、ビルマに転じた[1][2][3]。同年8月、陸軍少将に進級[1][2][3]。第15師団参謀長としてインパール作戦に参戦[2]。1944年(昭和19年)10月、陸軍燃料本部付に発令され[2][3]、同年12月に着任[1]。1945年(昭和20年)3月、軍需省軍需官(火薬対策班長)に就任し終戦を迎えた[2]。同年12月、予備役に編入[1]。その後、1947年(昭和22年)1月まで復員官を務めた[1]。同年11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]

栄典

勲章

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『日本陸海軍総合事典』第2版、40頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j 『日本陸軍将官辞典』167頁。
  3. ^ a b c d e f g 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』420頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』416、420頁。
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」123頁。
  6. ^ 『官報』第5634号「叙任及辞令」1945年10月22日。

参考文献

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。



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