たいへいよう‐せんそう〔タイヘイヤウセンサウ〕【太平洋戦争】
【太平洋戦争】(たいへいようせんそう)
1940年代前半、東南アジア・西太平洋において行われた、日本と英米など連合国との戦争。
第二次世界大戦の一環でもある。
開戦までの経緯
1937年7月7日、中国・北京の盧溝橋で夜間演習中だった日本軍と国民革命軍が衝突。(盧溝橋事件)
これにより日中戦争(支那事変)が生起した。
当初、帝国政府は現地解決・戦争不拡大の方針によって事態の収拾を図ろうとしたが、昭和初期の「統帥権干犯問題」や「二・二六事件」以後から行われるようになった軍部による政治干渉などにより、政府は軍事行動を主張する陸軍を抑えることができず、情勢は大規模な日中全面衝突に発展する。
国民革命軍は欧米からの援助(援蒋ルート)を受けながらゲリラ戦などの戦術を用い各地で日本軍に抵抗。
日本軍は思いもよらない苦戦を強いられ、戦線は伸び未曾有の長期戦に陥っていた。
日本の満州事変以来の中国平定を警戒する英米仏と、事変の長期化は欧米の対中軍事支援によるとする日本の関係は急速に悪化。
アメリカは航空機用燃料・鉄鋼資源の対日輸出の制限をするなど日本への締め上げが行われた。
そんな中で日本は、ヨーロッパで第二次世界大戦を繰り広げるドイツとイタリアに接近し、1940年に日独伊三国軍事同盟を締結し、フランス・ヴィシー政権の合意の下、フランス領インドシナへ第一次、第二次と進駐し事態の打開を図るが、アメリカは日本に対し屑鉄と鉄鋼そして石油の輸出全面禁止という経済封鎖を以って仏印進駐に応える。
その後、数度にわたり日米交渉が行われるも交渉は難航し、アメリカは1941年11月26日、いわゆる「ハル・ノート」を日本側に提示。
これを最後通牒と見た日本は、12月1日の御前会議で交渉打ち切りと開戦を決定。
択捉島の単冠湾(ひとかっぷわん)からアメリカ太平洋艦隊の根拠地であるハワイ・真珠湾に向けて出撃していた日本海軍連合艦隊に12月8日、戦闘行動開始命令が伝えられた。
緒戦
1941年12月8日、日本の真珠湾攻撃により戦争は始まり、同じ日、日本軍はフィリピンやインドネシア、マレー半島など東南アジアや太平洋に進駐。
各地で連合軍に勝利し、日本は占領地域を着々と拡大していった。
1941年12月10日、日本海軍の航空隊はマレー半島の東方海上で、イギリス東洋艦隊の最新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を沈め、日本は南西太平洋の制海権を掌握。(マレー沖海戦)
1942年2月15日、イギリス軍の要塞シンガポールが戦闘の末、日本軍に占領される。
1942年3月には、蘭領インドネシア・ジャワ島が日本軍に占領される。
1942年4月、日本はアメリカ海軍の機動部隊を制圧するため、機動部隊の主力を投入し、ミッドウェー島の攻略を決める。
しかし直後、ドーリットル空襲が行われ、日本は衝撃を受ける。
1942年5月7日、ニューギニア南岸、ポート・モレスビー攻略を目指す日本海軍機動部隊は、珊瑚海でアメリカ海軍機動部隊とオーストラリア軍と戦闘。
日本軍はアメリカ空母「レキシントン」を沈めるも空母「祥鳳」を失い、日本軍はポート・モレスビー攻略を中止、戦略的には敗北する。(珊瑚海海戦)
連合軍の反攻
1942年6月にミッドウェー海戦が生起し、日本軍は機動部隊総力を挙げて島の攻略を図るも、主力空母4隻などを失う事態に陥り、また多くの艦載機や熟練パイロットを失ったこの戦闘は戦争のターニングポイントとなった。
9月、アメリカ西海岸に接近していた数隻の日本潜水艦に搭載された水上偵察機が、オレゴン州を2度にわたり空爆し、森林火災を起こすなどの被害を与えた。
これは、2012年現在に至るまでアメリカ本土に対して行われた唯一の外国軍機による空襲となっている。
また、オーストラリアでは日本海軍の特殊潜航艇によるシドニー港攻撃が行われ、オーストラリアのシドニー港に停泊していたオーストラリア海軍の船艇1隻が撃沈された。
1942年8月、ソロモン諸島ガダルカナル島をめぐって日米両軍は激戦を繰り広げる。
日本軍は作戦上で失敗し、基地航空隊も激しく消耗。
また、兵站が伸びきったことによる物資不足やマラリアの感染にも悩まされ、ガダルカナル島派遣部隊の3分の2にあたる2万1000人を失った。(ガダルカナル島の戦い)
1943年2月、日本軍は島から撤退する。
1944年6月15日、アメリカ軍はサイパン島への上陸攻撃を開始する。
このサイパン攻防戦の一環として6月19日、マリアナ沖海戦が生起し、日本軍は太平洋水域の制海権を失い、サイパン島も日本軍のほとんどが戦死する激戦の末、7月9日にアメリカ軍はサイパン島を占領。
これはアメリカ軍に日本本土爆撃の基地を与えたことになり、東条英機内閣は総辞職する。(サイパンの戦い)
1944年10月12日、台湾にいた日本軍の航空隊はアメリカ軍レイテ島上陸支援のために沖縄を攻撃しながら南下していたアメリカ海軍機動部隊を集中攻撃。
2隻の巡洋艦を撃沈するも、逆に日本軍機動部隊の航空戦力の大半を失った。(台湾沖航空戦)
1944年10月23日、フィリピン・レイテ島争奪をめぐって日米両軍が全力を挙げて空前の大海戦を展開。
ダグラス・マッカーサー連合軍南西太平洋方面司令官はレイテ島確保に成功し、日本は戦艦「武蔵」をはじめ、連合艦隊の主力を失った。
またこの戦いで神風特別攻撃隊が登場した。(レイテ沖海戦)
連合軍の日本領土攻撃
1945年2月19日、小笠原兵団(21,000名)が死守する硫黄島に、アメリカ第3・4・5海兵師団61,000名が上陸開始。
約1ヶ月の戦闘で日本軍の大半が戦死し、残兵も玉砕し、硫黄島の日本軍は全滅。
アメリカ軍も兵力の3分の1近くが戦死し、第二次世界大戦で最も激しい戦闘のひとつになった。(硫黄島の戦い)
1945年3月26日、グアムから発進したアメリカ軍の大艦隊は、4月沖縄本島中部西海岸に上陸。
日本側は現地召集の防衛隊や学徒隊2万人あまりを加えた約10万の兵力を中心にこれに応戦。
日本海軍も『菊水作戦』と呼ばれる特攻作戦を実行し、「一号」から「十号」作戦までの10次に渡って行われた特攻で約2,000名が戦死し、陸軍航空部隊も特攻を実行し、約1,000名が戦死した。
3ヶ月に及ぶ戦闘で日本軍の組織的抵抗は終わるが、日本軍9万人あまり、一般住民9万人あまり、アメリカ軍1万3000人弱の犠牲者を出した。(沖縄戦)
1945年4月7日、日本では鈴木貫太郎内閣が成立し、7月26日、ポツダム宣言が発表される。
しかし日本はこれを黙殺してしまった。
8月6日、広島にウラン235原子爆弾「リトルボーイ」が投下され、死者26万を超える被害を出し、9日には長崎にプルトニウム239原子爆弾「ファットマン」が投下され、市街3分の1が焦土と化し、死傷者15万に及んだ。
1945年8月14日、鈴木内閣はポツダム宣言を受諾し、これを中立国スイスを通じて連合国側に通告し、翌15日、昭和天皇が臣民にラジオを通じてこれを報告。(玉音放送)
9月2日、東京湾に停泊していたアメリカ戦艦「ミズーリ」の艦上で降伏文書調印式が行われ、日本側は政府全権重光葵、大本営全権梅津美治郎、連合国側はダグラス・マッカーサーをはじめ、連合国各国代表が出席。
降伏文書に両勢力代表が署名し、日本はこの日からGHQの占領下におかれることが正式に合意された。
初めて航空母艦が海軍の主力となった戦争であり、真珠湾作戦、珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦と殆ど艦船同士が撃ち合うことのない、航空機を主力とした戦いが続き、それまでの戦艦を中心とした大艦巨砲主義を過去の物とし、空母機動部隊と航空機を中心とした航空主兵主義へと移行した。
太平洋戦争という呼称は「The Pacific War」を日本語に訳したものである。
戦後GHQは大東亜戦争の呼称を禁止し、太平洋戦争の呼称を強要したため、今日では大東亜戦争という呼称は殆ど用いられる事が無くなりつつある。
年表
太平洋戦争 (たいへいようせんそう)
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