絶対国防圏構想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 22:12 UTC 版)
1943年(昭和18年)9月、日本海軍と日本陸軍は、絶対国防圏と称する防衛線の設定に合意した。絶対国防圏はマリアナ諸島からカロリン諸島を経由して、西部ニューギニアのヘルビング湾(現チェンデラワシ湾)からバンダ海とフローレス海までを最前線と定めた。この時点では防衛線に陸軍部隊はほとんど配備されていなかったため、中国戦線と満州から部隊を輸送して、航空基地の防衛に充てる計画であった。部隊輸送は1944年(昭和19年)3月以降、本格化した。中部太平洋方面(マリアナ諸島やカロリン諸島)への増援作戦は「松輸送」、豪北方面(西部ニューギニアなどオランダ領東インド東部)への増援作戦は「竹輸送」と命名された。これらの呼称は、日本で縁起の良いとされた3種の植物「松竹梅」に由来する。ドイツの封鎖突破船「柳船」が成功を収めたことにもあやかっている。 しかし、船舶不足から、増援部隊の輸送は遅れていた。中部太平洋方面の防備が最優先とされたため、特に豪北方面へ配備予定の部隊が後回しになり、1944年(昭和19年)4月になっても中国に残っていた。 中部太平洋方面への増援作戦(松輸送)は、当初の予定通り順調に進んだ。 詳細は「松輸送」を参照 遅れていた豪北方面への増援作戦(竹輸送)が加速されたきっかけは、1944年(昭和19年)3月末のホーランジア空襲とパラオ大空襲での被害であった。東条英機参謀総長は、情勢の変転に即応する「一令一動主義」によって兵団の派遣先変更を盛んにおこなった。西部ニューギニアやフィリピン南部への連合軍の急進撃をおそれた大本営は、4月4日、パラオ行きを予定していた第35師団の第二次輸送部隊(2個歩兵連隊基幹)を西部ニューギニアのマノクワリへ(同日附で第三十一軍から第二軍に隷属変更)、ハルマヘラ島行きを予定していた第32師団をフィリピン南部のミンダナオ島へと送ることにした(同日附で第十二軍から第十四軍戦闘序列に編入)。4月9日に大本営は竹船団輸送作戦を発令し、この2個師団を運ぶ竹一船団が上海で編成された。この2個師団は1939年(昭和14年)に編成されたもので、これまで日中戦争で戦歴を積んでいた。「竹一船団」というのは、竹船団の1回目の意味である。なお、第35師団の3個歩兵連隊のうち歩兵第219連隊は、師団司令部とともに第一次輸送部隊とされ、松輸送の東松5号船団に乗って4月初旬に先発、同月下旬に無傷でパラオへと進出している。 さらに、大本営は4月10日頃になって再び計画を変更し、第32師団を当初の予定通りのハルマヘラ島に送ることにした。大本営は、前線への部隊の海上輸送が次第に困難になっていることに頭を痛め、これ以降に予定していた絶対国防圏への増援部隊は、連合軍の侵攻前に間に合わない可能性があると考え始めていた。そこで、第32師団を、ミンダナオ島よりも緊急性が高い豪北方面の第2軍への増援に充てることに決めたのである。正式な目的地変更は、船団出航後の4月25日に発令された。
※この「絶対国防圏構想」の解説は、「竹一船団」の解説の一部です。
「絶対国防圏構想」を含む「竹一船団」の記事については、「竹一船団」の概要を参照ください。
- 絶対国防圏構想のページへのリンク