絶対国防圏の決定
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1943年(昭和18年)、大本営はソロモン諸島での一連の敗戦とアメリカ軍による本格的な反攻を前にして、広がりきった現戦線で戦うことの不利を認識、後方に自主的に戦線を設けて戦線を集約しようという方針の検討を始めた。しかし、日本陸軍と日本海軍ではその方針が異なっており、日本陸軍のアメリカ軍の反攻から思い切って間合いをとり、後方の防衛線で反撃態勢を整えようという方針に対して、戦線の後退は最低限に止め、早期決戦を追求すべきという日本海軍、特に連合艦隊との方針の違いもあって、議論は容易には噛み合わなかった。連合艦隊はギルバート諸島やマーシャル諸島をアメリカ軍侵攻の迎撃帯とするZ作戦要領を発令したが、従来、太平洋正面は海軍の担当地域と考えていた陸軍は、ギルバートやマーシャルには部隊を配置しておらず、陸軍が想定している西北部ニューギニアからマリアナ諸島に至る後方戦線から2,000㎞以上も東方に位置しているこれらの離島では、陸海軍が連携しての反撃は困難であるとして激しく反撥した。 これら陸海軍の根本的な方針の差は解消されなかったものの、9月30日の閣議及び御前会議で決定された「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」において「帝国戦争遂行上太平洋及印度洋方面ニ於テ絶対確保スヘキ要域ヲ千島、小笠原、内南洋(中西部)及西部「ニューギニア」「スンダ」「ビルマ」ヲ含ム圏域トス」とする「絶対国防圏」が決定された。これは陸軍の主張してきた後方戦線とほぼ同じもので、海軍が主張してきた決戦場である、ギルバートやマーシャルは除外されたが、大綱のなかの「敵米英ニ対シ其ノ攻勢企図ヲ破摧シツツ」や「随時敵ノ反攻戦力ヲ捕捉破摧ス」の抽象的文言により、絶対国防圏の前方での海軍の作戦を容認する玉虫色の決着であり、この海軍の決戦思想は、陸軍の持久戦略とは相反するもので、のちの絶対国防圏の防衛体制構築を遅らせることになってしまった。 陸海軍は絶対国防圏の防衛方針について協議してきたが、10月になってようやく戦力の配備案がまとまり、支那派遣軍から第3師団、第13師団、第36師団、日本本土から第52師団、第46師団の5個師団が絶対国防圏上に増援として送られることとなった。そして、陸海軍は11月8日に「中部太平洋方面ニ対スル陸軍部隊ノ派遣ニ伴フ大本営陸海軍部覚書」を交わして、従来海軍の担当とされてきた中部太平洋地域にも陸軍部隊が派遣されることとなった。絶対国防圏の中核であるマリアナには第13師団、連合艦隊の根拠地であるトラック環礁に第52師団、またアメリカ軍が侵攻してきた島に逆上陸を敢行する専門部隊海上機動第1旅団がマーシャルに配置され、他にもウェーク島、ポナペ島、クサイ島など太平洋諸島に部隊が送られた。陸軍部隊が増援として各地に送られている間、連合艦隊はニューギニア方面で基地航空隊による航空攻勢「ろ号作戦」を発令したが見るべき成果もなく、アメリカ軍の侵攻は全く衰えずに、1943年11月にはギルバートに侵攻し、タラワの戦いとマキンの戦いでギルバートを攻略してしまった。 ろ号作戦の惨敗とギルバートの失陥で絶対国防圏前方での決戦思想が後退した海軍に対して、今度は陸軍が1943年年末から年始にかけて、参謀本部作戦課長服部卓四郎大佐の統裁によって行われた大規模な兵棋演習「虎号兵棋」によって、1944年は「東守西攻」の年とする方針を決定した。これは東の太平洋方面では絶対国防圏で持久作戦をとりつつ、西の中国大陸で大規模な攻勢を行うというものであった。この方針転換によって中国大陸では日本陸軍建軍以来最大級の作戦となる「大陸打通作戦」(一号作戦)が実施されることとなり、マリアナに向けて派遣予定であった第13師団の派遣は中止された。このように統一感のない混迷した作戦指導によってマリアナの防備態勢構築はさらに遅延していくことになった。
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絶対国防圏の決定
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1943年、大本営はソロモン諸島での一連の敗戦とアメリカ軍による本格的な反攻を前にして、広がりきった現戦線で戦うことの不利を認識、後方に自主的に戦線を設けて戦線を集約しようという方針の検討を始めた。しかし、日本陸軍と日本海軍ではその方針が異なっており、日本陸軍は大幅に戦域を集約したうえで、後方の防衛線で反撃態勢を整えようという方針に対して、日本海軍は戦線の後退は最低限にし、早期決戦を追求すべきという方針であり、なかなか方針が固まらないまま時が経過していった。日本海軍はギルバート諸島やマーシャル諸島をアメリカ軍侵攻の迎撃帯とするZ作戦要領を発令したが、従来、太平洋正面は海軍の担当地域と考えていた陸軍は、ギルバートやマーシャルには部隊を配置しておらず、陸軍が想定している西北部ニューギニアからマリアナ諸島に至る後方戦線から2,000㎞以上も東方に位置しているこれらの離島では、陸海軍が連携しての反撃は困難であると主張するなど、陸海軍の認識の相違は明らかであった。 これら陸海軍の根本的な方針の差は解消されなかったものの、9月30日の閣議及び御前会議で決定された「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」において「帝国戦争遂行上太平洋及印度洋方面ニ於テ絶対確保スヘキ要域ヲ千島、小笠原、内南洋(中西部)及西部「ニューギニア」「スンダ」「ビルマ」ヲ含ム圏域トス」とする「絶対国防圏」が決定された。これは陸軍の主張してきた後方戦線とほぼ同じもので、海軍が主張してきた決戦場である、ギルバートやマーシャルは除外されたが、大綱のなかの「敵米英ニ対シ其ノ攻勢企図ヲ破摧シツツ」や「随時敵ノ反攻戦力ヲ捕捉破摧ス」の抽象的文言により、絶対国防圏の前方での海軍の作戦を容認する玉虫色の決着であり、この海軍の決戦思想は、陸軍の持久戦略とは相反するもので、のちの絶対国防圏の防衛体制構築を遅らせることになってしまった
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