フランス・イタリアへの留学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/21 22:09 UTC 版)
「三吉米熊」の記事における「フランス・イタリアへの留学」の解説
ところが、8月27日農商務大臣井上馨に磯部温泉へと呼び出され、次のパリ万国博覧会人造絹糸が出品されるとして、養蚕業への影響について意見を求められた。関係者と協議の結果、三吉、大里、吾妻蚕種業田中甚平、競進社木村九蔵、省技師高島得三の5名で洋行してパリで実物を確認し、併せて現地の養蚕業を視察することに決定した。 1889年(明治22年)4月リヨンに到着し、パリで万博会場を視察後、5月イタリアに移り、パドヴァ養蚕実験局(イタリア語版)や、ローマ、ミラノ、トリノ近郊の養蚕関係施設を視察した。8月一行と別れて一人留学を続け、モンペリエ国立高等農学校(フランス語版)で1ヶ月間蠁蛆の対策を研究、リヨン生糸検査所(フランス語版)長の指導も受け、1891年(明治24年)7月帰国した。 この間、1889年(明治22年)9月農商務省告示の規定に基づき農学士を授与され、1891年(明治24年)6月12日正式に県職を退いた。
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