近因(私学校と士族反乱)
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「西南戦争」の記事における「近因(私学校と士族反乱)」の解説
明治六年政変で下野した西郷は1874年(明治7年)、鹿児島県全域に私学校とその分校を創設した。その目的は、西郷と共に下野した不平士族たちを統率することと、県内の若者を教育することであったが、外国人講師を採用したり、優秀な私学校徒を欧州へ遊学させる等、積極的に西欧文化を取り入れており、外征を行うための強固な軍隊を創造することを目指していた。やがてこの私学校はその与党も含め、鹿児島縣令大山綱良の協力の元で県政の大部分を握る大勢力へと成長していった。 一方、近代化を進める中央政府は1876年(明治9年)3月8日に廃刀令、同年8月5日に金禄公債証書発行条例を発布した。この2つは帯刀・俸禄の支給という旧武士最後の特権を奪うものであり、士族に精神的かつ経済的なダメージを負わせた。これが契機となり、同年10月24日に熊本県で「神風連の乱」、10月27日に福岡県で「秋月の乱」、10月28日に山口県で「萩の乱」が起こった。日当山温泉にいた西郷はこれらの乱の報告を聞き、11月、桂久武に対し書簡を出した。この書簡には士族の反乱を愉快に思う西郷の心情の外に「起つと決した時には天下を驚かす」との意も書かれていた。ただ、書簡中では若殿輩(わかとのばら)が逸(はや)らないようにこの鰻温泉を動かないとも記しているので、この「立つと決する」は内乱よりは当時西郷が最も心配していた対ロシアのための防御・外征を意味していた可能性が高い。その一方で1871年(明治4年)に中央政府に復帰して下野するまでの2年間、上京当初抱いていた士族を中心とする「強兵」重視路線が、四民平等・廃藩置県を全面に押し出した木戸孝允・大隈重信らの「富国」重視路線によって斥けられたことに対する不満や反発が西郷の心中に全く無かったとも考えられない。とはいえ、西郷の真意は今以て憶測の域内にある。 他方、私学校設立以来、政府は彼らの威を恐れ、早期の対策を行ってこなかったが、私学校党による県政の掌握が進むにつれて、私学校に対する曲解も本格化してきた。この曲解とは、私学校を政府への反乱を企てる志士を養成する機関だとする見解である。そしてついに、1876年(明治9年)内務卿大久保利通は、内閣顧問木戸孝允を中心とする長州派の猛烈な提案に押し切られ、鹿児島県政改革案を受諾した。この時、大久保は外に私学校、内に長州派という非常に苦しい立場に立たされていた。この改革案は鹿児島県令大山綱良の反対と地方の乱の発生により、その大部分が実行不可能となった。しかし、実際に実行された対鹿児島策もあった。その一つが1877年(明治10年)1月、私学校の内部偵察と離間工作のために警視庁大警視川路利良が中原尚雄以下24名の警察官を、「帰郷」の名目で鹿児島へと派遣したことである。私学校徒達はこれを不審に思い、その目的を聞き出すべく警戒していた。
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