セルジューク・東ローマ戦争
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セルジューク・東ローマ戦争 | |
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戦争:セルジューク・東ローマ戦争 | |
年月日:1055年 - 1308年 | |
場所:アナトリア、アルメニア | |
結果:トゥルクメン人のアナトリア流入 | |
交戦勢力 | |
東ローマ帝国 | セルジューク・トルコ ルーム・セルジューク朝 |
指導者・指揮官 | |
ロマノス4世ディオゲネス アレクシオス1世コムネノス ヨハネス2世コムネノス |
トゥグリル・ベク マリク・シャー アルプ・アルスラーン クルチ・アルスラーン2世 |
セルジューク・東ローマ戦争(セルジューク・ひがしローマせんそう)は、セルジューク朝、および後継国家のルーム・セルジューク朝と、東ローマ帝国およびニカイア帝国との間に起こった戦争である。
マラズギルトの戦いでの東ローマ帝国の大敗後、アナトリア半島へのテュルク民族の流入が続き、アナトリアのテュルク化が進行した。コムネノス朝とルーム・セルジュークは一進一退の攻防を繰り広げたが、オスマン帝国によってルーム・セルジュークが滅ぼされ、この戦争は終わった。
セルジュークのアナトリア進出
1045年に東ローマ帝国はアルメニアを征服した。これによって東ローマ帝国は、すでにイランを支配下におさめていたセルジューク朝と領土を接することとなり、直接セルジュークの侵攻をうける事になる。東ローマ皇帝コンスタンティノス10世ドゥーカスは経費削減のため、グルジアとアルメニアの兵士からなる防衛隊を解散させてしまった。こうして守備力がなくなったアルメニアは徹底的にセルジューク朝の攻撃を受ける事になり、1064年にアルプ・アルスラーンによってアルメニアは完全に征服された。東ローマ皇帝ロマノス4世ディオゲネスは大勢の傭兵を引き連れてセルジューク討伐に向かったが、マラズギルトの戦いで大敗し捕虜になってしまう。これでアナトリアの防衛も崩壊し、さらに内紛で動揺していた東ローマはアナトリアをセルジュークに占領されてしまった。
コムネノス家とセルジュークの戦い
1081年に皇帝に即位したアレクシオス1世コムネノスは西欧に傭兵の提供を求めた。これは十字軍襲来と言う予期せぬ結果をもたらしたが、ともかくアレクシオスは十字軍とともにセルジュークと戦い、ニカイアを取り戻した。さらに1118年に即位したヨハネス2世コムネノスは黒海やエーゲ海沿岸の領土を取り戻した。(その中にはコムネノス家の領地だったカスタモンも含まれていた)ヨハネス2世はその後、シリアで事故死し、そのあとをマヌエル1世コムネノスがついだ。即位当初はセルジュークを服従させていたマヌエルだったが、セルジュークが神聖ローマ帝国と好を通じたため、マヌエルは1176年にセルジューク討伐を開始したがミュリオケファロン峠でセルジューク軍の待ち伏せ攻撃を受け、敗北した。この敗戦で意気消沈したマヌエルはセルジュークと和約を結び、間もなく死去してしまった。
主な戦い
- バイブルトの戦い
- マラズギルトの戦い
- カスタモンの戦い
- ネオカエサリアの戦い
- ミュリオケファロンの戦い
- メアンドロス川の戦い
参考文献
- エドワード・ギボン 著 「ローマ帝国衰亡史」
- エリザベス・ハラム 編集 「十字軍大全」
外部リンク
セルジューク・東ローマ戦争(1055年 - 1308年)
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「東ローマ帝国」の記事における「セルジューク・東ローマ戦争(1055年 - 1308年)」の解説
1055年、セルジューク・東ローマ戦争が始まり、1071年にはマラズギルト(マンジケルト)の戦いでトルコ人のセルジューク朝に敗れたため、東からトルコ人が侵入して領土は急速に縮小した。小アジアのほぼ全域をトルコ人に奪われ、ノルマン人のルッジェーロ2世には南イタリアを奪われた。 1081年に即位した、大貴族コムネノス家出身の皇帝アレクシオス1世コムネノス(在位:1081年 - 1118年)は婚姻政策で地方の大貴族を皇族一門へ取りこみ、帝国政府を大貴族の連合政権として再編・強化することに成功した。また、当時地中海貿易に進出してきていたヴェネツィアと貿易特権と引き換えに海軍力の提供を受ける一方、ローマ教皇へ援軍を要請し、トルコ人からの領土奪回を図った。 アレクシオス1世と、その息子で名君とされるヨハネス2世コムネノス(在位:1118年 - 1143年)はこれらの軍事力を利用して領土の回復に成功し、小アジアの西半分および東半分の沿岸地域およびバルカン半島を奪回。東ローマ帝国は再び東地中海の強国の地位を取り戻した。 ヨハネス2世の後を継いだ息子マヌエル1世コムネノス(在位:1143年 - 1180年)は有能で勇敢な軍人皇帝であり、ローマ帝国の復興を目指して神聖ローマ帝国との外交駆け引き、イタリア遠征やシリア遠征、建築事業などに明け暮れた。しかし度重なる遠征や建築事業で国力は疲弊した。特にイタリア遠征、エジプト遠征は完全な失敗に終わり、ヴァネツィアや神聖ローマ帝国を敵に回したことで西欧諸国との関係も悪化した。1176年には、アナトリア中部のミュリオケファロンの戦いでトルコ人のルーム・セルジューク朝に惨敗した。犠牲者のほとんどはアンティオキア公国の軍勢であり、実際はそれほど大きな負けではなかったらしいが、この敗戦で東ローマ帝国の国際的地位は地に落ちた。
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