コムネノス家とセルジュークの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/20 01:48 UTC 版)
「セルジューク・東ローマ戦争」の記事における「コムネノス家とセルジュークの戦い」の解説
1081年に皇帝に即位したアレクシオス1世コムネノスは西欧に傭兵の提供を求めた。これは十字軍襲来と言う予期せぬ結果をもたらしたが、ともかくアレクシオスは十字軍とともにセルジュークと戦い、ニカイアを取り戻した。さらに1118年に即位したヨハネス2世コムネノスは黒海やエーゲ海沿岸の領土を取り戻した。(その中にはコムネノス家の領地だったカスタモンも含まれていた)ヨハネス2世はその後、シリアで事故死し、そのあとをマヌエル1世コムネノスがついだ。即位当初はセルジュークを服従させていたマヌエルだったが、セルジュークが神聖ローマ帝国と好を通じたため、マヌエルは1176年にセルジューク討伐を開始したがミュリオケファロン峠でセルジューク軍の待ち伏せ攻撃を受け、敗北した。この敗戦で意気消沈したマヌエルはセルジュークと和約を結び、間もなく死去してしまった。
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