コムネノス朝におけるドゥーカス家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 04:32 UTC 版)
「ドゥーカス王朝」の記事における「コムネノス朝におけるドゥーカス家」の解説
コムネノス家との関係は、コムネノス朝期のドゥーカス家の興隆と名声を東ローマ貴族の中で絶頂のものにし、一族の出世につながった。アレクシオス1世の治世下で、ドゥーカス家は引き続き重要な役割を果たした。コンスタンティノス・ドゥーカスはアンナ・コムネナと婚約し、アレクシオス1世コムネノスの法定推定相続人とされた(ただしこの地位はヨハネス2世コムネノスが誕生した時に失った)。また、エイレーネー・ドゥーカイナの兄弟でprotostratorのミカエル・ドゥーカスおよびmegas doux(大公)ヨハネス・ドゥーカスは11世紀後半における最も有名な軍司令官であった。 12世紀には、実際のドゥーカス家との繋がりが薄く(しかも大抵女系の繋がりで)、時代を経てその関係がはっきりしなくなったとしても、「ドゥーカス」の名はしばしば他の一族の姓に加えられた。従って、「ドゥーカス」の名を持つ多くの人びとを明確に区別して11世紀のドゥーカス家とのつながりを正確に見つけることは不可能である。コンスタンティノス10世の直系の子孫は1100年以前に絶え、弟カエサルヨハネスの最後の子孫は12世紀前半に生存していたことが確認できる。12世紀に見られる「ドゥーカス」名を持つ人びとの大半は従ってほとんどが婚姻によってドゥーカス家とつながりのあった他の一族であり、その名を名乗ることで関係を強調する意図があったと考えられる。
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