コムネノス朝の崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/24 05:48 UTC 版)
「アニェス・ド・フランス (東ローマ皇后)」の記事における「コムネノス朝の崩壊」の解説
1183年、マリア・コムネナによって、マヌエル帝の従弟にあたるアンドロニコスが呼び寄せられた。マヌエル帝が存命中に最も恐れた男で、彼自身、帝位への野望を隠さなかった。彼は、マリア・コムネナとその夫ラニエリを毒殺したと信じられている。彼は皇太后マリアを捕らえ、すぐに処刑した。アンドロニコスはアレクシオスと共同統治帝として、アンドロニコス1世コムネノスと名乗った。しかし、1183年の10月、彼は自身でアレクシオスを弓の弦で絞め殺した。アンナはわずか12歳だったため、皇位を正当化するならいとして彼女を皇后にするのには60歳のアンドロニコスも躊躇し、亡妻との子マヌエルに彼女を妻とするよう命じた。ところが、皇太后マリアの処刑にも反対した彼は、この命令も拒んだ。そのため、アンドロニコスはアニェスと結婚した。 アンドロニコスは、最初の妻との間に2男をもうけており、実の姪にあたる二人の愛妾(エウドキア・コムネナとテオドラ・コムネナ)と、皇太后マリアの同母妹フィリッパも過去に愛人関係にあった。元エルサレム王妃テオドラ・コムネナとの間には1男1女が生まれている。アレクシオスの死後、アンドロニコスの共同統治帝となった嫡子マヌエルには、このとき既に長子アレクシオス(のちのトレビゾンド帝国皇帝アレクシオス1世)が生まれていた。 アンナは、アンドロニコスが1185年9月に廃位されるまで2年あまりを皇后として過ごした。アンドロニコスは強権的な改革で東ローマ帝国を立て直そうとしたが、次第に統治は過酷になり市民や貴族の不満が溜まっていった。ノルマン人のギリシャ侵攻で首都市民がパニック状態になって反乱を起こすと、アンドロニコスはアンナと愛人たちを連れて船で首都を脱出した。彼らは黒海沿岸の要塞都市にたどりついた。彼らは、過去に亡命したことのあるクリミア半島へ向かおうとしていた。しかし逆風のため船は進まず、追っ手に捕らえられてアンドロニコスは首都へ連れ戻された。彼は、新皇帝イサキオス2世から市民へ「圧制者」として引き渡され、なぶり殺しにされた。
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