セルジューク朝の勃興とは? わかりやすく解説

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セルジューク朝の勃興

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 08:40 UTC 版)

セルジューク朝」の記事における「セルジューク朝の勃興」の解説

王朝遠祖セルジュークは、オグズ族のクヌク氏族(qiniq/qïnïq)に属すテュルク系遊牧集団部族)の君長であったセルジューク朝時代資料では、むしろ『シャーナーメ』などのイラン世界伝統歴史観基づいて古代トゥーラーンの王アフラースィヤーブ後裔名乗る場合多く見られる)。10世紀後半頃にセルジュークらの遊牧集団アラル海北方から中央アジア入りアラル海東方ジャンド(現カザフスタン領)に拠を構え、南のステップ地帯丘陵部定着して遊牧生活送りながらイスラム教改宗したこのように遊牧生活守りながらムスリムとなったテュルク系遊牧部族のことをペルシア語トゥルクマーンという。 10世紀の末にセルジュークの子らはさらに南下してトゥーラーン(現ウズベキスタン・タジキスタン)に入りサーマーン朝仕えて勢力蓄えたセルジュークの子のひとり、イスラーイールは、11世紀初頭配下トゥルクマーン4000家族とともにさらにアム川を南渡してガズナ朝マフムード仕えたが、その実力を恐れたマフムードによって幽閉されたほどであった。しかし、イスラーイールの没落によってトゥルクマーン統制失われアム川以南ホラーサーン地方(現トルクメニスタン)には多くトゥルクマーン流入し略奪が行われるようになった一方トゥーラーン残ったイスラーイールの甥、トゥグリル・ベグリーダーとするセルジュークの子孫たちは、サーマーン朝滅ぼしてトゥーラーン支配したカラハン朝対立して1035年アム川渡り1038年ニーシャプール(現イラン東北部)に無血入城して、その支配者迎えられた。この事件セルジューク朝建国とされるトゥグリル・ベグ兄弟ホラーサーントゥルクマーン統御し軍事力高め1040年にはガズナ朝マスウード1世英語版)の軍をダンダーナカーンの戦い破ってホラーサーン支配固めたトゥグリル・ベグ1042年にはアム川下流ホラズム(現ウズベキスタン西部)を占領し1050年にはイラン高原転進しイスファハーン取りイラン大部分手中に収めた。また、スルタンスルターン)の称号この頃から称し始めたスンナ派ムスリムイスラム教徒)であるトゥグリル・ベグは、バグダードにいるアッバース朝カリフ書簡送って忠誠誓いスンナ派擁護者としてシーア派脅かされるカリフ救い出すため、イラン・イラクを統治してカリフ庇護下に置くシーア派王朝ブワイフ朝を討つ、という大義名分獲得した1055年バグダードカリフから招き受けたトゥグリル・ベグバグダード入城しカリフから正式にスルタン称号授与された。同時にカリフの居都であるバグダードにおいて、スルタンの名が支配者として金曜礼拝のフトバに詠まれ貨幣刻まれることが命ぜられ、スルタンという称号イスラム世界において公式の称号として初め認められた。

※この「セルジューク朝の勃興」の解説は、「セルジューク朝」の解説の一部です。
「セルジューク朝の勃興」を含む「セルジューク朝」の記事については、「セルジューク朝」の概要を参照ください。

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