セルジューク朝の成立とは? わかりやすく解説

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セルジューク朝の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/26 19:05 UTC 版)

オグズ」の記事における「セルジューク朝の成立」の解説

シル川以北にいたオグズ連合部族一氏族であるクヌク氏から、セルジュークセルチュク)という者が台頭し彼に率いられ集団10世紀中ごろになってオグズから分かれて左岸移りジャンドの町を根拠地とした。ここでイスラーム受容した彼らはサーマーン朝庇護のもと、ザラフシャン川流域移動した11世紀初頭1020年代)、セルジューク息子であるアルスラーン・イスラーイールはカラハン朝ブハーラーサマルカンド支配者であるアリー・ティギーンのもとにあったが、カラハン朝内紛乗じてカラ・クム草原アム川越えてガズナ朝領域であったホラーサーン北部侵入したガズナ朝マフムードトゥルクマーンイスラーム改宗したオグズのこと)の影響力恐れてアルスラーン逮捕幽閉した。彼の統制から離れたトゥルクマーンたちは、ニサー,サラフスなどのホラーサーン北方都市周辺地域多数家畜放牧始めたため、牧地荒廃し租税収入減少した。そのためマフムードは彼らの追放決し、自ら軍を率いて攻撃赴いたが、トゥルクマーンの方もカスピ海東北拠点設け各地略奪おこなったトゥルクマーンはさらに他の集団合わせて数人の長(ベグ)の指揮のもと、ホラーサーンの諸都市略奪続けたまた、これらの集団を彼らが侵入したイラーク・アジャムにちなんでイラーキー・トゥルクマーンと呼んだり、族長の名をとってキジル,ギョクタシュなどと呼ぶものもあった。1038年、これら無統制となって暴徒化したトゥルクマーン取り締まるため、ガズナ朝見切りをつけたニーシャープール支配者であるアーヤーン家は、セルジューク家のトゥグリル・ベクらを受け入れ彼にトゥルクマーン統制任せた(このニーシャープール入城1038年をもってセルジューク朝の成立とされる)。1040年、ダンダーンカーンの戦いでガズナ朝壊滅させたトゥグリル・ベクは、次々と周辺都市支配下におさめ、ホラーサーンでの覇権確保するとともに、旧ガズナ朝官僚などを採用して語学法学などに通じた知識人確保した1055年トゥグリル・ベクバグダード入城しカリフから正式にスルターン称号授与された。

※この「セルジューク朝の成立」の解説は、「オグズ」の解説の一部です。
「セルジューク朝の成立」を含む「オグズ」の記事については、「オグズ」の概要を参照ください。

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