セルジョ・クラニョッティ会長時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 05:01 UTC 版)
「SSラツィオ」の記事における「セルジョ・クラニョッティ会長時代」の解説
こうした状況を打破するため、1992年に大手食品会社チリオのオーナー、セルジョ・クラニョッティが会長に就任する。 ディノ・ゾフが監督を務めて以降は上位に顔を出すようにはなったが、当時はクラニョッティ自身が多忙だったため、1994年には監督だったゾフにフロントを任せて、ゾフの後任にズデネク・ゼーマンを招聘する。 1997年にスヴェン・ゴラン・エリクソンが監督に就任して以降は多くのタイトルを獲得することになる。 1998年にイタリアのクラブでは初めて株式を上場し、これによって潤沢な資金を得たクラブは、シニシャ・ミハイロヴィチ、イバン・デ・ラ・ペーニャ、セルジオ・コンセイソン、デヤン・スタンコヴィッチ、クリスチャン・ヴィエリ、マルセロ・サラスといったスター選手を次々に獲得すると、戦力が大きくアップしたチームは優勝争いに加わるようになる。その結果、1999年には最初で最後のUEFAカップウィナーズカップ優勝、次いでUEFAスーパーカップ優勝、2000年には26年ぶりのリーグ優勝とコッパ・イタリア制覇とクラブ史上初の2冠を達成するなど大きな成功を手にした。 しかし、サッカーバブル崩壊と共に、株式上場が裏目に出たことやチリオの業績悪化の影響を受けて多くの負債を抱えるようになった。これにより、多くのスター選手が移籍市場に売り出され、ついに、2002年には生え抜きでチームのキャプテンでもあったアレッサンドロ・ネスタをACミランに売り出さなければならないほどにまでクラブの財政は悪化した。 その後、クラニョッティ一族は2003年にクラブ経営から退き、一族の顧問弁護士であったウーゴ・ロンゴが管財人として会長職に就任した。
※この「セルジョ・クラニョッティ会長時代」の解説は、「SSラツィオ」の解説の一部です。
「セルジョ・クラニョッティ会長時代」を含む「SSラツィオ」の記事については、「SSラツィオ」の概要を参照ください。
- セルジョ・クラニョッティ会長時代のページへのリンク