セルズニック・インターナショナル・ピクチャーズ
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「アルフレッド・ヒッチコック」の記事における「セルズニック・インターナショナル・ピクチャーズ」の解説
1939年2月、ヒッチコックはシャムリー・グリーンの別荘を処分し、自宅アパートの賃貸契約を終了させた。ヒッチコックはイギリスを去る前の数日間を母と過ごし、3月1日にアルマとパトリシア、秘書のジョーン・ハリソン、専属のコックとメイド、そして2匹の愛犬とともにアメリカに向けてサウサンプトンからクイーン・メリー号で出航した。その数日後に一行はニューヨークに到着し、しばらくマンハッタンに滞在したあとにロサンゼルスへ移り、ウィルシャー大通り(英語版)10331番地にあるアパートに住んだが、その数か月後にはベルエア(英語版)のセント・クラウド・ロード609番地にあるキャロル・ロンバードが所有する家に引っ越した。アメリカに移住したばかりのヒッチコックは、毎週日曜日に家族と教会のミサに出席し、定期的にビバリーヒルズのレストランで食事をとるという生活を送った。 4月10日、ヒッチコックは正式にセルズニック・インターナショナル・ピクチャーズに雇われた。その監督第1作には、当初タイタニック号沈没事故を題材にした作品が予定されていたが、セルズニックの意向で流れ、代わりにセルズニックが映画化権を購入したダフニ・デュ・モーリエの小説が原作の『レベッカ』を監督することになった。この作品は19世紀のイギリスの荘園が舞台で、先妻の思い出に付きまとわれた大富豪(ローレンス・オリヴィエ)に嫁いだアメリカ娘(ジョーン・フォンテイン)が主人公のゴシック・ロマンス風の心理スリラーである。ハリウッドではプロデューサーが映画製作の主導権を握っていたが、この作品にもセルズニックの意向や価値基準が大きく反映され、そんなセルズニックと芸術性を追求するヒッチコックとの間でたびたび軋轢が生じた。その最初の出来事は、6月上旬に提出した脚本が、原作の忠実な映画化を求めるセルズニックに「小説として見事に成功した作品を、ひねくれた俗悪な映画にする気はない」と拒否されたことだった。 同年夏に脚本の修正が終わり、9月上旬に撮影を始めたが、その最初の週に第二次世界大戦が勃発し、ヒッチコックはイギリスにいる家族の身を案じ、戦争に対する不安は映画製作にも影響を及ぼした。撮影中もヒッチコックはセルズニックの干渉に苛立ちを見せ、作品が芸術的に報われなくなると不満を露にした。スポトーはこの作品を「ヒッチコックの映画というよりセルズニックの映画である」と述べているが、他のヒッチコック作品に通じる独自の視覚的なタッチは維持された。また、ヒッチコックは「カメラの中で編集する(最終的に編集された画面に使われるシーンのみを撮影する手法)」という手法をとることで、セルズニックが編集で手を加えられないようにした。1940年3月に公開されたこの作品は、第13回アカデミー賞で作品賞を受賞し、セルズニックにオスカー像がもたらされた。ヒッチコックも自身初の監督賞にノミネートされ、作品はほかにも9部門でノミネートされた。
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