ゲインズボロ・ピクチャーズへ復帰
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「アルフレッド・ヒッチコック」の記事における「ゲインズボロ・ピクチャーズへ復帰」の解説
『サボタージュ』の完成後、ゴーモン・ブリティッシュは財政的問題で製作部門を閉鎖し、今後は単なる配給会社になることを発表した。それによりヒッチコックは、同社の子会社になっていた古巣のゲインズボロ・ピクチャーズと2本の映画を撮る契約を結んだ。その1本目はジョセフィン・テイの小説『ロウソクのために一シリングを』が原作の『第3逃亡者』(1937年11月公開)で、1937年3月までにベネットらと脚本に取り組み、5月に撮影を終えた。この作品は殺人犯と疑われて警察に追われる無実の男の運命を描く犯罪スリラーで、『ニューヨーク・タイムズ』紙には「静かな魅力を備えた映画」と評された。 同年8月には家族と休暇のためアメリカへ旅行に出たが、関係者はこの旅行でアメリカの会社と契約を結ぶべきかどうか下見をするつもりだろうと推測した。実際にヒッチコックはイギリスの映画産業の技術的制約や、自身が過小評価されていることを強く感じていた。そしてアメリカ旅行中、ハリウッドの独立系映画会社セルズニック・インターナショナル・ピクチャーズ(英語版)を率いる映画プロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックはヒッチコックに興味を示し、助手にヒッチコックと会うように指示した。9月に帰国する時には、ヒッチコックはセルズニックのほか、RKOやMGMなどの大手映画会社と契約交渉を進めていた。 10月、ヒッチコックはゲインズボロ・ピクチャーズでの監督2本目として、会社内で企画倒れになっていたエセル・リナ・ホワイトの小説『車輪は回る(英語版)』が原作の脚本『バルカン超特急』を取り上げた。この作品は列車内で忽然と姿を消した老婦人(メイ・ウィッティ)を捜索するイギリス人女性(マーガレット・ロックウッド)が主人公のサスペンスである。撮影は12月まで行われ、翌1938年10月に公開されると高い成功を収めた。イギリスやアメリカの批評家にも賞賛され、『ヘラルド・トリビューン』紙には「『バルカン超特急』は、セザンヌのキャンバスやストラヴィンスキーの楽譜と同様に、監督一流の想像力と技量の産物だ」と評され、『ニューヨーク・タイムズ』にはその年のベスト・ワンの作品と呼ばれた。また、ヒッチコックはこの作品で第4回ニューヨーク映画批評家協会賞の監督賞を受賞した。 この作品に取り組んでいる間も、ヒッチコックはセルズニックとの交渉は続けられた。1938年6月にヒッチコックは契約をまとめるため再びアメリカを訪れ、7月14日にセルズニックとの契約書に署名した。契約では年に1本ずつ、計4本の映画を撮り、1本あたり5万ドルのギャラを受け取ることになっていた。契約が履行されるのは1939年4月からで、ヒッチコックはアメリカへ出発するまでの間、チャールズ・ロートンとエーリッヒ・ポマー(ドイツ語版)が設立した映画製作会社メイフラワー・プロダクションズ(英語版)のために、ダフニ・デュ・モーリエの海賊冒険小説が原作のコスチューム・プレイ『巌窟の野獣』を監督した。撮影は1938年秋に行われたが、ヒッチコックは途中で作品への興味を失い、主演のロートンが自分の演技のために撮影を何度も中断するのに苛立った。1939年に公開されると興行的に成功はしたものの、批評家には酷評され、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』誌には「この映画は妙に退屈で面白くない…型にはまった、気の抜けたメロドラマである」と批判された。
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