ゴーモン・ブリティッシュとは? わかりやすく解説

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ゴーモン・ブリティッシュ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/30 15:13 UTC 版)

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ゴーモン・ブリティッシュ映画社 (Gaumont-British Picture Corporation) は、かつてフランス映画会社ゴーモンの傘下にあったイギリスの映画会社。1922年にイシドア・オストラー (Isidore Ostrer) が経営権を獲得し、ゴーモン傘下から独立した。1927年、無声映画時代のイギリスを代表する映画スタジオのひとつであったアイデアル映画を吸収合併した。

イシドア・オストラーが経営権を所有していた時期には、その兄弟など親族の多くがゴーモン・ブリティッシュの事業に直接携わった[1]。当時の同社は、16,000人の従業員を雇い、映画館や劇場のほか、ダンスホールレストランなど300以上の施設を運営していた[1]

ゴーモン・ブリティッシュ社のライム・グローブ・スタジオでは、アルフレッド・ヒッチコックが監督した1935年版の『三十九夜』、1938年の『バルカン超特急』などが撮影された。

1938年12月まで、ゴーモン・ブリティッシュは、アメリカ合衆国においても独自の配給網を運営していたが、この事業は継続されず、その後は20世紀フォックスが配給を担うようになった。

1941年、ゴーモン・ブリティッシュは、姉妹会社であったゲインズボロ映画 (Gainsborough Pictures) とともに、ランク・オーガニゼイション英語版に買収された。

映画館のオルガン

かつて、映画館にはシアターオルガン英語版と呼ばれるオルガンが置かれており、映画上映の前後や休憩時に演奏されていた。そうしたオルガンの中で、オルガンの収納箱のふたが平たい形になっているものを「ゴーモン・オルガン (Gaumont organ)」と称したが、これはシェパーズ・ブッシュのパビリオン・シアター (the Pavilion Theatre) に設置されたものが元になっており[2]1931年から1934年にかけてロンドンのジョン・コンプトン・オルガン・カンパニー (John Compton Organ Company) によって各地に設置された。

外部リンク

出典・脚注

  1. ^ a b gaumont-british.co.uk”. Nigel Ostrer. 2012年4月16日閲覧。
  2. ^ Console Cases and Illuminated Surrounds”. The Compton List. 2008年12月6日閲覧。

ゴーモン・ブリティッシュ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 17:53 UTC 版)

アルフレッド・ヒッチコック」の記事における「ゴーモン・ブリティッシュ」の解説

『リッチ・アンド・ストレンジ』『第十七番』の立て続け失敗不調となっていたヒッチコックは、BIP去ったあとの1933年にロンドン・フィルム(英語版)のアレクサンダー・コルダ短期契約を結び、『ジャングルの上を飛ぶ翼』の監督予定したが、資金調達することができず、契約ごと解消となった。その次に独立系プロデューサートム・アーノルド英語版)と契約を結び、ヨハン・シュトラウス2世主人公音楽映画ウィンナー・ワルツ英語版)』を撮影したが、この企画はじめから絶望的で、ヒッチコック撮影中に創作意欲がわかなくなった後年ヒッチコックは「とてもわたしの作品だなんておおっぴらに言え代物じゃない」と述べ、この時期を「最低の時代」と呼んだ作品1934年2月公開されると、完全な失敗作と見なされた。 この作品撮影中、マイケル・バルコンがヒッチコックのもとを訪れヒッチコックBIP時代チャールズ・ベネット共同執筆した脚本映画化する提案をした。ヒッチコックはこれを再起チャンス考え1934年バルコン製作担当重役務めていたゴーモン・ブリティッシュと5本の映画作る契約を結び、ロンドン西部シェパーズ・ブッシュにあるライム・グローブ・スタジオ移った映画化決めた脚本は、同社第1作として『暗殺者の家』の題名監督することになり、同年4月から5月にかけてベネットらとシナリオ作成し5月から8月の間に撮影した。この作品ヒッチコック自身が得意とするサスペンスジャンル復帰しサスペンスユーモア組み合わせという以後ヒッチコック作品基本となるスタイルで、ある夫婦大使暗殺する計画巻き込まれる物語描いた12月公開される大ヒットし、批評家からも賞賛され、『デイリー・エクスプレス』誌は「ヒッチコックは再びイギリス監督の中でナンバーワンの座に躍り出たと書いている。 この作品名声取り戻したヒッチコックは、作品成功おかげで自由に主題を選ぶことができるようになり、そこで自身好きな作家だったジョン・バカンスパイ小説三十九階段』に基づく『三十九夜』を企画したヒッチコックベネットらと原作自由に改変して脚本作り1935年初めに撮影した。この作品殺人巻き込まれた男(ロバート・ドーナット)が、スパイ警察追われながら自分無実証明するという物語を、前作同様にユーモアサスペンス組み合わせながら速いテンポ描いた同年6月イギリス公開される前作同様に高い成功収めアメリカでヒッチコック作品過去最高のヒット作となった。 その次にヒッチコックは、サマセット・モーム短編小説集アシェンデン』とそのいくつかのエピソードをもとにした戯曲下敷きスパイ映画間諜最後の日』(1936年5月公開)を監督した。この作品第一次世界大戦中ドイツスパイ殺害する任務受けたイギリスのスパイスパイ(ジョン・ギールグッド)を主人公にした物語であるが、前2作のような成功を収めることはできなかった。同作完成後の1936年1月ヒッチコックベネットらとスイスジョゼフ・コンラッド小説密偵英語版)』が原作の『サボタージュ』の脚本執筆し同年春に製作を開始した。これは妻(シルヴィア・シドニー)に内緒破壊活動をするアナーキストオスカー・ホモルカ)を描いた作品で、同年公開されると『バラエティ』誌に「監督巧み熟練した技が、職人的な手法作られ巧妙なこの作品あちこち光っている」と評された。

※この「ゴーモン・ブリティッシュ」の解説は、「アルフレッド・ヒッチコック」の解説の一部です。
「ゴーモン・ブリティッシュ」を含む「アルフレッド・ヒッチコック」の記事については、「アルフレッド・ヒッチコック」の概要を参照ください。

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