セルジュークのアナトリア進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/20 01:48 UTC 版)
「セルジューク・東ローマ戦争」の記事における「セルジュークのアナトリア進出」の解説
1045年に東ローマ帝国はアルメニアを征服した。これによって東ローマ帝国は、すでにイランを支配下におさめていたセルジューク朝と領土を接することとなり、直接セルジュークの侵攻をうける事になる。東ローマ皇帝コンスタンティノス10世ドゥーカスは経費削減のため、グルジアとアルメニアの兵士からなる防衛隊を解散させてしまった。こうして守備力がなくなったアルメニアは徹底的にセルジューク朝の攻撃を受ける事になり、1064年にアルプ・アルスラーンによってアルメニアは完全に征服された。東ローマ皇帝ロマノス4世ディオゲネスは大勢の傭兵を引き連れてセルジューク討伐に向かったが、マラズギルトの戦いで大敗し捕虜になってしまう。これでアナトリアの防衛も崩壊し、さらに内紛で動揺していた東ローマはアナトリアをセルジュークに占領されてしまった。
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