第二次ブルランの戦い、メリーランド方面作戦、フレデリックスバーグの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/05 06:33 UTC 版)
「ジェイムズ・ロングストリート」の記事における「第二次ブルランの戦い、メリーランド方面作戦、フレデリックスバーグの戦い」の解説
リーの部下の軍団指揮者に関する軍事的な評判はしばしばストーンウォール・ジャクソンが代表する大胆で攻撃的性格のものであったが、ロングストリートは防御的な戦略と戦術を推奨し実行した典型的な指揮官であり、ジャクソンを軍隊のハンマーとすれば、ロングストリートは金敷であった。1862年8月の北バージニア方面作戦では、この固定観念が当てはまらなかった。ロングストリートは全軍の右翼を担い(後に第1軍団と呼ばれた)、ジャクソンが左翼を担った。ジャクソンはリーの命令で作戦を開始し、その部隊を北軍ジョン・ポープ少将のバージニア軍の後方に進ませて側面を衝こうとしたが、続いて防御的な配置を採ってポープ軍の攻撃をうまく迎え入れた。8月28日と29日、第二次ブルランの戦いの開始時点で、ポープはロングストリートや他の南軍部隊が北方の戦場に到着している時にジャクソン軍に猛襲を加えた。この戦いの後で、ロングストリート軍があまりにゆっくりと行軍しており、ジャクソン軍は単独で2日間も敵の鉾先に耐えねばならなかったと非難する者がいたが、ロングストリート軍は24時間ちょっとの間に30マイル (48 km)を進んでおり、リー将軍もそれ以上早くその軍隊を集中させようとはしていなかった。 ロングストリート軍が8月29日の真昼頃に到着したとき、リーはジャクソン軍に注意を集中している北軍の側面を衝くように命じた。ロングストリートは午後の間ぐずぐずしており、個人的に偵察する時間を要求したが、これがリーをイライラさせてその命令を3度も出させることになった。午後6時半までにジョン・ベル・フッド准将の師団が前進して北軍第5軍団と対抗したが、ロングストリートは8時半にはフッド軍を退かせた。この件で再度ロングストリートは批判され、戦後の敗戦責任を追及する者達は、その鈍さと攻撃を躊躇したことおよびリー将軍の命令に従わなかったことは、1863年7月2日にゲティスバーグの戦いで起きた議論の多い行動の前兆だったと主張した。リーの伝記作者ダグラス・サウスオール・フリーマンは「ゲティスバーグの悲劇の種はこの時に撒かれた。リーがロングストリートに屈服したとき、ロングストリートはリーがそうなることを見付けた」と書いた。 この批判にも拘わらず、翌日8月30日はロングストリートが大手柄を立てた日であった。ポープはジャクソン軍が撤退を始めていると信じ込んでいたので、ロングストリートはその機に乗じて25,000名以上の部隊で北軍の左翼に総攻撃を掛けさせた。4時間以上にわたって「巨大なハンマーのように猛攻」を掛けた。ロングストリートは活発に砲兵隊による砲撃を指示し、乱闘の中に旅団を送り込んだ。ロングストリートとリーはこの総攻撃のときに協働して当たっており、どちらも北軍の砲撃に曝された。北軍は激しい防御で耐えたものの、ポープの軍はほぼ同じ戦場であった第一次ブル・ランの戦いの惨めな敗北時と同様に後退を強いられた。ロングストリートは戦勝の功績をすべてリーにあるものとし、この作戦は「賢明で輝かしい」と表現した。これは戦略的攻撃の中で防御的戦術を使うというロングストリートが理想と考える戦略形態を作り上げた。 ロングストリートが防御を好む将軍であるという評判は、1862年後半の2つの大きな戦闘における彼の功績で固められた。9月のメリーランド方面作戦では、アンティータムの戦いで2倍の勢力の北軍に対して防御的配置を布いて耐えた(ロングストリートは靴擦れができていたために、絨毯用スリッパを履き、横鞍に乗って戦場の防衛戦を指揮した)。南北戦争で最も流血が多かった1日の後で、リーはその部下に「あー、ここにロングストリートがいる。ここに私の「オールド・ウォー・ホース」がいると言って称えた。アンティータムから数週間後の10月9日、ロングストリートは中将に昇進した。リーはロングストリートの昇進をジャクソンより1日早くなるように手配して、オールド・ウォー・ホースが南軍では上級の将軍であることを示した。11月に行われた軍隊の再編成で、ロングストリートが指揮する第1軍団は5個師団約41,000名になった。 12月ロングストリートの第1軍団はフレデリックスバーグの戦いで決定的な役割を演じた。メアリーズハイツの石壁の背後に部隊を配置し、北軍の攻撃を14度はね返した。北軍の損失は約1万人に達したのに対し、ロングストリート軍は500名を失っただけだった。この防御の大きな成功は地形の利点を活かしただけではなかった。アンティータムの戦いでの損失が防御工作をしていなかったことから倍加されたことを覚えていて、この時は塹壕、逆茂木および堡塁を作らせておいた。このやり方はその後の北バージニア軍で防御的布陣を布くときに先例となった。
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