神聖ローマ帝国との対立と死去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/09/11 16:42 UTC 版)
「ニコラウス2世 (ローマ教皇)」の記事における「神聖ローマ帝国との対立と死去」の解説
急速な教皇庁の権力拡大を進めるニコラウス2世は、当然の帰結ながら神聖ローマ帝国との対立を回避できなかった。イタリアの支配権を主張する皇帝ハインリヒ4世とは激しく衝突したが、その争いの半ばにしてニコラウス2世は1061年6月、重病にかかり死期を悟った。そこで彼はシチリア王国やノルマン人の支持の元アレクサンデル2世を後継に指名し、7月27日に死去した。しかしハインリヒ4世の母で摂政のアグネス・フォン・ポワトゥーは対立教皇ホノリウス2世を擁立し、教皇位は1064年まで再び分裂することとなった。神聖ローマ帝国と教皇庁の対立はその後も続き、ニコラウス2世の側近だったイルデブラントがグレゴリウス7世としてアレクサンデル2世の跡を継いだことで、両者は決定的な正面衝突を迎えることとなる。
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