神聖ローマ帝国の建築
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 05:00 UTC 版)
「ロマネスク建築」の記事における「神聖ローマ帝国の建築」の解説
9世紀後半になると、ヨーロッパの北方ではノルマン人が、東方からはハンガリー人、南イタリアからアッバース朝がそれぞれ侵入を繰り返し、イベリア半島では後ウマイヤ朝が隆盛を誇ってその支配を盤石なものとしつつあった。加えてヴェルダン条約によるフランク王国の分裂で権力が希薄となったため、諸侯による紛争が頻発し、ヨーロッパ全域は文字通りの暗黒時代を迎えた。建築活動は著しく衰退し、この時期に建設された建築で現在に残るものは全くない。一方で、この混乱はフューダリズムを発達、確立させることになり、この時代に中世ヨーロッパ社会の枠組みが形成されることになる。 オットー1世が955年のレヒフェルトの戦いでハンガリー人に勝利した後、継続的な戦争状態から脱したヨーロッパは、政治的な安定を取り戻すとともに、再び活発な建築活動を行うことになった。フューダリズム(中世封建制度)の枠組みはきわめて曖昧なもので、オットー3世が自ら「世界の皇帝」と称した神聖ローマ帝国の権威も、行政組織に立脚したものではなく、絵画や建築といった芸術によって具現される象徴的な表現を頼るものであった。このため、ザクセン朝は教会組織を統治機構の中に組み込み、聖堂の建設と寄贈した調度品によって、その権力を維持することになった。ザクセン朝初期の建築活動は完全に空白であるが、1000年前後から大規模な教会堂が建設されたことが知られている。ヴェーザー川とエルベ川に挟まれたザクセン地方東部はその中心地であり、 世界遺産にも登録されているヒルデスハイムのベネディクト会大修道院ザンクト・ミヒャエル聖堂が、この時代のザクセン朝建築の偉大なるモニュメントとして残っている。ザンクト・ミヒャエルに代表されるように、ライン川流域からアルザス地方の教会堂は、円柱とピア(角柱)を交互に配置する平天井バシリカが好まれた。単純に円柱と角柱を交互に配置する方式は、ヴェルデンのザンクト・ルーツィウス聖堂、ドリュベック修道院大教会堂などが挙げられる。ザンクト・ミヒャエルと同じ円柱2本ごとに角柱をおく方式は、ゲルンローデの大修道院付属ザンクト・ツァリアクス聖堂やバート・ガンダースハイム大聖堂などがある。その他に、ブレーメンなどに大聖堂が建設されたことが知られているが、現在ではほんの一部の遺構しか残っていない。 ライン川上流部は、ザクセン東部とともにドイツの初期ロマネスク建築において重要な役割を担った場所である。世界遺産にも登録されているライヒェナウ島には、1000年前後に建設されたオーバーツェルのザンクト・ゲオルグ聖堂、ミッテルツェルのザンクト・マリーア・ウント・ザンクト・マルクス聖堂などが残っている。ザクセン朝の後に帝位を次いだザリエル朝の本拠地であるバーテン、およびラインラントでは、初期ロマネスク建築の活動はたいへん活発化した。ザリエル朝もまた、教会組織との連携を強化、聖堂の建設に邁進し、コンラート2世は、1024年に首都として選んだシュパイアーに大聖堂の建設を命じた。コンラート2世が意図した教会堂は比較的小規模なものであったが、ハインリヒ3世とハインリヒ4世がその拡張を行っている。第一シュパイアーと呼ばれているこの教会堂は、正方形の内陣と平たい外壁、付柱で分節された内壁、完全に分離した交差部を持つ、初期ロマネスク建築に特有の形態であった。
※この「神聖ローマ帝国の建築」の解説は、「ロマネスク建築」の解説の一部です。
「神聖ローマ帝国の建築」を含む「ロマネスク建築」の記事については、「ロマネスク建築」の概要を参照ください。
- 神聖ローマ帝国の建築のページへのリンク