神聖ローマ帝国内カトリック地域における発展
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「ラインラント福音主義教会」の記事における「神聖ローマ帝国内カトリック地域における発展」の解説
宗教改革の導入が始まった当初は、カトリック信仰の強いラインラントであっても、福音主義教会共同体は比較的寛大な扱いを受けた。1527年2月19日、ベルク公国の首都デュッセルドルフでルター派神学者フリードリヒ・ミュコニウス(1490年‐1546年)とフランシスコ会原始会則派コルバッハ修道院のヨハン・ヘラーとの間で宗教的対論が開催された。デュッセルドルフ市内のミュコニウス通りはプロテスタントによる最初の説教をしたミュコニウスを記念して命名された。 1530年から1540年にかけて福音主義教会共同体がユーリヒ公国で散発的に設立された(今日のユーリヒ教会地区)。1540年から1550年にかけてクレーフェ公国 (現在のクレーフェ、ヴェーゼル、デュースブルク教会地区)、1550年頃にはヴェルデン修道院付近(現在のエッセン、ミュールハイム・アン・デア・ルール教会地区)で、1550年から1560年頃にはベルク公国 (現在のデュッセルドルフ、デュッセルドルフ‐メットマン、ヴッパータール、ニーダーベルク、レンネップ、ゾーリンゲン、ケルン-ライン右岸、アン・ジーク・ウント・ライン教会地区)でも福音主義教会共同体が設立された。 とりわけ、ユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国の宗教政策はヨハン平和公と呼ばれたヨハン3世 (1490–1539)とヴィルヘルム5世 (1516–1592)の下でドイツ人文主義とエラスムス主義を調停する信念で統治が為された。その影響の下で 人文主義者で宗教改革者であったフィリップ・メランヒトンの協力を得た上で、1532年と1533年にこの地のキリスト教会の教憲が制定された。 ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヴィルヘルム5世は1543年から1570年までパンと葡萄酒による二種陪餐聖餐を受け、福音主義教会牧師を受け入れていた。1564年にはヴィルヘルム5世は人文主義者ゲオルク・カサンドロスによる宗教宥和的勧告を受けて、共に教会改革に踏み出していた。1567年1月12日から21日まで、デュッセルドルフにてミュンスター司教のヴィルヘルム・ケテラー(1512–1582)を議長とする宗教に関する協議会が開催された。そこにはローマ・カトリック教会、ルター派、改革派教会の神学者、政治家合わせて28人が参加した。1568年、オランダ人避難民共同体の代表者は、オランダ教会の教憲を持ったヴェセル教会会議をこの地で形成した結果、長老制や教会総会というオランダ改革派の教会制度がユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国のドイツ人教会共同体にまで広がった。しかしながら、多くの新教徒を処刑したスペインの第3代アルバ公爵 フェルナンド・アルバレス・デ・トレド (1507–1582)が1567年に近接する属領ネーデルラントの総督となった結果、ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヨハン・ヴィルヘルムによる統治下での寛容政策も終焉を遂げた。 ケルン大司教ヘルマン・フォン・ヴィート(1477–1552)とゲプハルト・トゥルホゼス・フォン・ヴァルトブルク(1547–1601)の下で、1542年から1547年(フィリップ・メランヒトンとマルチン・ブツァーも参与)と1582年から1589年までおこなわれた2度のケルン大司教領への宗教改革導入はカトリック教会の組織的抵抗を受け挫折した。 1559年、ハイデルベルク信仰問答作成にも加わった改革派神学者カスパル・オレヴィアーヌス(1536–1587)によるトリーアでのプロテスタント教会設立の試みは、この地をカトリック司教領として支配していたトリーア大司教によって叩き潰された。モーゼル川流域の由緒ある歴史を持つトリーアにおいて、福音主義教会が本格的に宣教できるようになったのは、プロイセン王国への併合以降である。現在においてもトリーア地区はローマ・カトリック教会がドイツで最も強い地域の一つと言われ、福音主義信徒は住民の1割程度に過ぎない。
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