神聖ローマ帝国解体後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 17:48 UTC 版)
「ハプスブルク家」の記事における「神聖ローマ帝国解体後」の解説
19世紀初頭に神聖ローマ帝国はフランス皇帝ナポレオン1世の攻勢に屈して完全に解体し、ハプスブルク家のフランツ2世は1806年に退位した。一方でフランツは、1804年にナポレオンがフランス皇帝として即位したのに先立って、オーストリア皇帝フランツ1世を称しており、以後ハプスブルク家はオーストリアの帝室として存続した。そして、ナポレオン1世追放後のヨーロッパにおいて、ウィーン体制護持の神聖同盟の一角として地位を保持し、ドイツ連邦内においても優位を保っていた。しかし、クリミア戦争でロシアと敵対して神聖同盟は事実上崩壊し、1859年にはサルデーニャ王国に敗北してロンバルディアを失い、1866年の普墺戦争で大敗を喫し、ドイツ連邦から追放(ドイツ統一)、と国際的地位を低下させた。 国内でも、多民族国家であることから諸民族が自治を求めて立ち上がり、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世がハンガリー人に対して妥協(アウスグライヒ)することで、帝国は1867年にオーストリア帝国とハンガリー王国とに二分して同じ君主を仰ぐオーストリア=ハンガリー帝国へ再編された。 それでも以後、民族問題は深刻を深めていく。1908年、ボスニア・ヘルツェゴビナ併合を行ったことから、それまでくすぶっていた大セルビア主義が高揚し、ロシアとの関係も悪化した。そして1914年、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻がボスニアの州都サラエヴォでセルビア人青年ガヴリロ・プリンツィプに暗殺される事件(サラエヴォ事件)がきっかけとなって、オーストリアのセルビアへの宣戦から第一次世界大戦が始まる。長引く戦争、ロシアのレーニン政府の戦線離脱などの要因が重なり、連合国側はハプスブルク帝国を解体しないという当初の方針を踏み越え、チェコスロヴァキアに独立を約束してしまう。帝国内の民族も続々と独立し、盟邦ハンガリーもオーストリアとの完全分立を宣言した。ハプスブルク家の最後の皇帝カール1世は亡命し、中欧に650年間君臨したハプスブルク帝国は1918年に崩壊した。その後、ハプスブルク一族はオーストリア共和国への入国を禁止された。1921年にはカール1世がハンガリー王国に復帰しようとしたが、失敗した(カール1世の復帰運動)。 1961年に至って、カール1世の長男オットー元皇太子はオーストリア帝位継承権と旧帝室財産の請求権を放棄してオーストリア共和国に忠誠の宣誓を行い、オーストリアに入国を許された。ハプスブルク家はオットーがドイツ選出で、その息子カールがオーストリア選出で、それぞれ欧州議会議員を務め、もはや統一を一切視野に入れずに同民族国家としての親密な関係を保つEU時代の両国関係を象徴する存在となっている。ただしオットーはその存命中、ハンガリー王とボヘミア王を名乗り続けていた。 なお、単に「ハプスブルク家」と呼ばれることが圧倒的に多いが、マリア・テレジアの子の世代以降、現在に至るまで正式な家名は「ハプスブルク=ロートリンゲン家」(Haus Habsburg-Lothringen)である。
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