神聖ローマ皇帝のもの
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 00:01 UTC 版)
神聖ローマ皇帝のレガリアである帝国宝物(ドイツ語版)のひとつである聖槍は、オットー1世の時代から伝わるとされている。長らくニュルンベルクで保管されていたが、ナポレオンの侵攻以降はウィーンで保管されている。アンシュルス後にはナチスによってニュルンベルクに戻されたが、戦後にはウィーンに戻っている。 ロバート・フェザーによる詳しい研究の結果、槍の大部分は鉄製と判明した[要出典]。外側を覆う金の鞘には「神の釘、神の槍」と書かれている。これは金の鞘の下に十字架が描かれた釘が埋め込まれている事とも一致する。さらに、清掃時の分解写真によると、黄金の鞘の下にもう一層の銀の鞘がある事が見て取れた。そのうちの1枚にはラテン語で「聖モーリスの槍」と書かれていた。銀の鞘の他の部位には「ローマ皇帝ハインリヒ3世が、聖なる釘と聖モーリスの槍を補強するためにこの銀の鞘を造らせた」と同じくラテン語で書かれていた[要出典]。 記録でわかる限り、この槍はエジプトでローマ軍の隊長であったモーリスの物だったとされる。モーリスと彼の部隊はキリスト教徒だった。286年、皇帝マクシミアヌスの命により、彼は槍を携えてヨーロッパに遠征した。スイスのレマン湖周辺で起きた暴動を鎮圧するためだったが、彼らが到着した時には反乱は鎮圧されていた。反乱軍がキリスト教徒だったと知ったモーリスは、皇帝に願い出て処刑を拒否した。これに激怒した皇帝はモーリスとその部隊全員を処刑するように命じたとされ、死を前にしても揺らぐ事のないモーリスの信仰心は中世の騎士たちの模範となり、彼は騎士や戦士の守護聖人である聖モーリスとなった[要出典]。 モーリスの処刑後、槍はコンスタンティヌス大帝のものとなった。当時ローマ帝国は政治的、宗教的に東西に分裂していた。コンスタンティヌス大帝は帝国の覇権をかけた戦いの直前、輝く十字架と「この印の下、汝は勝利するであろう」という文字を夢に見た。これに心動かされたコンスタンティヌスは自分の兵士たちの盾に、キリストを意味する頭文字を描かせた。さらに、戦いには聖槍を持って臨み、勝利を収め、キリスト教に傾倒したとされる[要出典]。後年、帝国をまとめるには新たな宗教が必要と考えた彼はキリスト教を公認した。 476年、西ローマ帝国が滅亡。その数百年後、槍はカール大帝の手に渡った。彼が教皇から皇帝に任命された後、聖槍の行方は分からなくなる[要出典]。 その後、銀の鞘の上に黄金の鞘をつけたのはカール4世だと考えられる。彼は次期神聖ローマ皇帝を狙っていた。そして、カール4世の子孫が生活に困り、ニュルンベルクの町議会に売り渡してしまった。 2003年1月、英国の冶金学者で技術工学の作家でもあるロバート・フェザーは、ドキュメンタリーのために槍のテストを行った。実験室の環境で調べるだけでなく、槍を支えている金と銀の繊細な鞘を取り除くという前代未聞の許可をも得た。X線回折、蛍光検査、その他の保存的療法による調査に基づき、槍の本体の年代を早くても7世紀とした。釘(長い間、十字架の釘だと主張されてきたもので、刃に打ち込まれ、真鍮の小さな十字架で止められていた)においても、その後間もなく、ウィーンの考古学研究所の研究者がX線などの技術を用いて様々な槍を調べた結果、槍は8世紀頃から9世紀初頭のもので、釘も同じ金属であることが明らかになり、紀元1世紀の時代との関連はないと断定された。
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