時代との関連
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 00:04 UTC 版)
前田愛は、弓子が赤木に「私は地震の娘です」と言い切るところに着目し、小学校5年だった関東大震災の混迷中に姉の悲恋を見てから、男に変身する決心をした弓子が、「自分の身体のなかに押しこめておいた〈女〉」を取り戻すきっかけは、「浅草の古い時代を象徴する赤木への愛」だったかもしれないが、その「危険な賭」は、赤木を死なせたことで終わったことを、以下のように解説している。 (弓子の)変身の願望がそのもっとも深いところでは復活を前提とした死を演ずることを意味しているとすれば、再生の途を封じてしまった弓子は、破壊の衝動を内に秘めた「地震の娘」でありつづけるだろう。「新しい東京はあの地震が振り出しだ。もちろん浅草も、あれから新しく生れたのだ」と書いている川端は、じつは弓子の不毛の愛を暗喩として、遠からぬ浅草の廃頽を予見していたのである。 — 前田愛「劇場としての浅草」 そして前田は、弓子をはじめ、「健全な市民から疎外された」裏社会の者たちを跳梁させている「アノミーそのものの世界」である『浅草紅団』は、関東大震災に引き続き、昭和恐慌となっていく「1920年代の東京を裏返しにした陰画」に見えるとし、やや性急な物言いかもしれないと前置きした上で、「プロレタリア文学が夢想していた革命の設計図とはべつに、川端が垣間見た地下世界(アンダーワールド)の不逞な活力には、たいへん古風な世直しの幻想が託されていたかもしれない」と考察している。 そして、その〈おとぎばなしのお姫さまのひとりごと〉(赤木の言葉)と見なされるかもしれない、そうした「幻想」を川端に抱かせたところに、「20年代の状況の息苦しさ」が読みとれると前田は見立て、川端が構想した「世直しの〈おとぎばなし〉」は、物語半ばで断念され、「地震の娘」で、「曖昧さ」と「両義性」のある弓子に代わり、「算術が得意で成熟した女」で、「鮮明な輪郭」の春子が前面に押しだされてくると解説しながら、「アンドロギュヌスにふさわしい言々無類の水の女(ウンディーネ)」であり、「流れの女」であった弓子から、「コンクリートの塔から隅田川の流れを俯瞰」し、『エッフェル塔の花嫁』を気取る春子になってゆくその変化を、「水の神話の地下水脈がほとんど涸れ果てようとしている浅草の風景」の様相を象徴した表現だと論考している。 増田みず子は、川端が『浅草紅団』は永遠に未完の様相だと意味したことに触れ、「この小説は未完にならざるを得ないように書かれたものである」とし、その理由を、「浅草の町の正体が、そのようなものであるからだ」としている。そして、〈浅草の花やかなうはべは、これほど動いてゐるところつて、日本にはないかもしれないがね〉と川端が書いているように、当時の浅草は、浮浪者が増加していたが活気があり、川端が弓子に惹かれたように、浅草を「不良少女のような町」だと思っていたと考察し、続編の『浅草祭』と含めて、一つの「浅草盛衰史」として繋がる2作は、浅草の雰囲気を正確に記録して伝えていると解説している。
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