時代と世代背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 07:27 UTC 版)
『アメリカひじき』の書かれた1967年(昭和42年)は、戦後生まれが20代となっており、作中にあるように、その頃の若者は、野坂昭如のような戦争体験者とは違い、単純に憧れの目でアメリカを見ている者も増え、GHQの戦後教育が日本に浸透し始めた時代であり、「いいにつけ悪いにつけヒステリックな意味ででも死ぬというふうに自分をかりたてることを、ひじょうにうまく骨抜き」にされ、若者を「狂的になりにくくしている」と野坂は見ていた。 戦前の1930年(昭和5年)生まれの野坂は、1歳の時に満州事変、小学校入学時に盧溝橋事件が始まり、太平洋戦争は中学の時に終わった。尾崎秀樹はこの野坂の世代について、「戦争と戦後の陥没地帯」に少年時代を過ごし、「そのどちらにもついてゆけず、既成の権威や秩序が音をたててくずれるのを、その目で見、その肌で感じた世代」であるとし、「それまで支配的であった八紘一宇や一億玉砕が消えると、今度は民主主義や平和憲法が立ち現れ、この世代はその言葉のハンランのなかでとまどい、生き恥さらす」と説明しながら、「虚妄に発し、虚妄に回帰するようなむなしさが、この世代をとりまくまがまがしさの実態」だと考察している。 野坂は神戸大空襲で罹災し、養父母を失い浮浪児生活を送り、焼跡闇市派としての体験を味わったが、直木賞受賞に際して野坂は、「ぼくを規定すると、焼跡闇市逃亡派といった方がいいかも知れぬ。空襲をうけて肉親を、焼跡と、それにつづく混乱の中に失い、ぼくだけが生き残った。燃えさかる我家にむけて、たった一言、両親を呼んだだけで、ぼくは一目散に六甲山へ走り逃げ、このうしろめたさが今もある。(中略)自分に対する甘えかも知れぬが、やはりうしろめたい」と述べている。 また、それまで「鬼畜米英」と言っていた新聞が掌を返したようにGHQ寄りとなったため、すっかり落胆し、これが「原体験」に近いものとなったという野坂は、それから後は一切何も信じなくなり、自分自身さえうまく生きてゆけば他人を裏切ってもいいというような気持になったが、「戦争で(それまでの価値観が)全部ひっくりかえったところでも、大人のようにはなりきれなくて、やっぱりアメリカ人には強い憎しみをもっていた」とし、敗戦当時の時代の模様については次のように語っている。 当時の一日一日の移りかわりを思い出せば、いったいどう描けば、あの片鱗なりとも読者に伝えられるのか、まことにもどかしい。神戸には九月二十五日に、進駐軍がやって来たのだが、ぼくは後にかなりGIと交渉をもつけれど、この頃はおびえるばかりで、その姿をみるとあわてて遠去かり、このくせは今もないではない。新聞に「キューキューと日米親善」なる見出しの記事があった。何のことかとおもえば、お互い、「サンキュー」「エクスキューズミイ」とゆずりあって、焼跡の整理を行うという意味のものだった。なんとも馬鹿馬鹿しく、そして腹が立った。 — 野坂昭如「闇市とスクリーン」(『アドリブ自叙伝』)
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