神聖ローマ帝国の統治と混乱とは? わかりやすく解説

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神聖ローマ帝国の統治と混乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 23:56 UTC 版)

ヴェンツェル (神聖ローマ皇帝)」の記事における「神聖ローマ帝国の統治と混乱」の解説

1361年カール4世嫡男としてニュルンベルク生まれた誕生から1年後に母が亡くなったが、父からの期待大きく1373年ブランデンブルク選帝侯位を与えられ1376年フランクフルトにおける選挙選帝侯全員一致ローマ王選出され、父の後継者として明確に定められた。だが、父が選帝侯買収資金調達のため自治都市税金をかけ、それに反対した都市シュヴァーベン都市同盟結成したことはヴェンツェル治世大きな災いもたらしたまた、1378年に父が亡くなった時、ブランデンブルクは弟のジギスムント引き継ぎ末弟ヨハンラウジッツ都市ゲルリッツ相続することになった従兄弟ヨープストモラヴィア領有していたため、ヴェンツェル分割相続立場弱めることになった1379年からローマ王としての親政開始したが、シュヴァーベン都市同盟対抗して諸侯団結して都市との戦争突入ヴェンツェル1382年から1384年にかけて度々都市同盟解散命じた効果なく、両者規模拡大させ1388年衝突した。手をこまねいていたヴェンツェルは翌1389年5月エーガーラント平和令発布したが、都市同盟解散賠償金支払いなど不公平な裁定目立ち都市不利な条件だったため都市反感を買った教会大分裂でもローマ教皇指名において1379年2月帝国議会ローマ教皇庁ウルバヌス6世支持したが、問題選帝侯達に丸投げして10年以上ボヘミア引っ込んでしまったため諸侯からも失望された。ローマ寄り姿勢1382年ウルバヌス6世取り持った異母妹アンナイングランド王リチャード2世結婚深まり見返りイングランド援助ローマで皇帝戴冠式挙げることを希望したが、都市諸侯戦争帝国政情不安になっているため実現しなかった。それでも結婚によりプラハ大学オックスフォード大学交流結ばれ両国文化発展もたらされたが、それはジョン・ウィクリフ思想ボヘミア流れボヘミアにおける宗教改革大きな役割を果たすことになる。 1395年イタリア僭主一人ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティミラノ公叙爵したことで帝国諸侯の不満は限界達しケルン選帝侯マインツ選帝侯トリーア選帝侯プファルツ選帝侯ループレヒト2世ヴェンツェルローマ王廃位動き出した1398年ループレヒト2世死去した工作続けられ1400年にケルン・マインツ・トリーア選帝侯プファルツ選帝侯ループレヒト3世ループレヒト2世の子)がヴェンツェル廃位宣言ループレヒト3世新たな王に選んだヴェンツェル廃位認めず抗議したが、地盤ボヘミア不安定な状況置かれていたため軍の動員など有効な手段取れずループレヒトローマ王ヴェンツェルボヘミア王という事実は動かせなかった。以後ヴェンツェルは死ぬまでローマ王名乗りボヘミア統治することになる。

※この「神聖ローマ帝国の統治と混乱」の解説は、「ヴェンツェル (神聖ローマ皇帝)」の解説の一部です。
「神聖ローマ帝国の統治と混乱」を含む「ヴェンツェル (神聖ローマ皇帝)」の記事については、「ヴェンツェル (神聖ローマ皇帝)」の概要を参照ください。

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