神聖ローマ帝国とポーランド・リトアニア共和国
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「ゴシック建築」の記事における「神聖ローマ帝国とポーランド・リトアニア共和国」の解説
神聖ローマ帝国では、1230年頃まで、特に西方地域でゴシック建築への反抗が根強く見られた。彼らはゴシック建築に無関心というわけではなく、いくつかの教会堂ではゴシック建築から採用されたと思しき装飾も見られるが、あくまで部分的な採用に止まり、構造的・美術的な原理としてゴシック建築を全面的に用いるということがなかった。バーゼルの大聖堂、リンブルク・アン・デア・ラーン大聖堂、ボンの大聖堂など、12世紀と13世紀初頭までのこのような傾向を持つ建築物をトランジション・スタイル(移行様式)と呼ぶこともある。 13世紀の中期から後期にかけて、帝国内でフランスのゴシック建築が定着することになったが、その伝播はいくつかの芸術の中心地からバラバラに広がる傾向にあったため、ゴシック建築の発展状況は、帝国の政治状況と同じく斑模様である。 いくつかの芸術的中心地を挙げると、まず、ハンザ同盟の市民によって競うように建てられた巨大建築物のひとつ、リューベックのマリーエンキルヘが挙げられる。これは13世紀末から14世紀初頭にかけて、バイエルンとプロイセン、ポーランド、デンマーク、スウェーデン、フィンランドなどで、一般にバックスタイン・ゴーティック(煉瓦造ゴシック、ブリック・ゴシック)と呼ばれる建築を広めるきっかけとなった。構造として煉瓦を用いているため、細かい装飾は省かれ、むしろ構造を率直に表現する意匠となっている。この様式は北部ドイツからポーランド・リトアニア共和国の領域を中心として分布している。 1235年に身廊の建設が着工されたストラスブール大聖堂は、14世紀になっても依然として帝国内で最大の建築工事として続行しており、これは15世紀中期にまで及んだ。サン=ドニ大聖堂とトロワ大聖堂を規範とした身廊を持つ大聖堂の造営工事は、14世紀半ばに技巧的には最盛期を迎え、エスリンゲンのフラウエンキルヒェやウルムの大聖堂など、アルザスやライン川上流部に影響を与えた。1400年代に建設されたストラスブールとウルムの西側両尖塔に見られる独特の形状は、その図像芸術からヴァイヒャー・シュティル(Weicher Stil 、柔軟様式)とも呼ばれる。建築自体の影響力は、地域的には限定されていたものの、建築組合の影響は広がりを持っていたらしく、1459年には、ウィーン、ケルン、ベルン、プラハなどの大聖堂の建築工事が、ストラスブールの建築組合によって管理されることが決定した。ただし、この決定が建築の造営にどの程度影響を与えたのかはあまり明確ではない。 1248年に建設が開始されたケルン大聖堂もストラスブールと比肩しうる大規模工事で、フランスのアミアン大聖堂に依拠し、装飾についてはフランスを凌駕するほど壮麗な部分もある。この大聖堂の影響はラインラントに限られるが、オッペンハイムの大聖堂、バヒャラッハのヴェルナーカペレなどの技巧性の高い教会堂が残る。アーヘン大聖堂内陣もまた、ケルン大聖堂とパリのサント・シャペルの影響を受けたもので、カペッラ・ウィトレア(ガラスの祭室)と呼ばれる。
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