ボソ (プロヴァンス王)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/04 05:42 UTC 版)
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ボソ Boso |
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プロヴァンス王 | |
ボソ王と聖ステファノ
(シャリリュー修道院のフレスコ画) |
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在位 | 879年 - 887年 |
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出生 | 841/4年 |
死去 | 887年1月11日 ヴィエンヌ |
配偶者 | 名前未詳の女性 |
エルマンガルド | |
子女 | ウィラ エルメンガルド エンゲルベルガ ルイ3世 |
家名 | ボゾン家 |
父親 | ビヴィン・ド・ゴルズ |
母親 | リシルド・ダルル |
宗教 | カトリック教会 |
ボソ(Boso, ? - 887年)は、ボゾン家出身のフランク人貴族。カロリング朝の親戚[1]であり、プロヴァンス王(在位:879年 - 887年)。父はロタリンギアの伯であるビヴィン・ド・ゴルズ。おばのテウトベルガはロタリンギア王ロタール2世の妻。ボソは又、イタリアの伯であり彼の名の元となったボソの甥であり、サンモーリス修道院長であるフクベルトの甥でもある。869年にフクベルトから修道院長を相続した。
シャルル禿頭王への奉仕
870年、西フランク王シャルル2世(禿頭王)はボソの妹リシルドと結婚した。ボソは、この結婚後、王である義兄に臣従した。同じ年、ボソはジラール・ド・ルシヨンに代わり、リヨンおよびヴィエンヌ伯に任命された。
872年、シャルル2世はボソを王位継承者であるルイ2世の執事および護衛長に任命した。さらにボソはブールジュ伯にも任命された。ルイ2世はアキテーヌの副王として君臨したが、若年であったため、王国の政治を行なったのはボソであった。
875年の秋、ボソはシャルル2世のイタリアへの最初の軍事行動に従軍した。876年2月、パヴィーアの議会でイタリアの首位の大臣および総督に任命され、公に格上げされた。彼はおそらくまたプロヴァンスの支配を託された。彼は副王として振る舞い、ローマ皇帝ロドヴィコ2世の唯一の娘エルマンガルドと結婚することで、ますます威信を高めた。
支持を失う
877年、ボソはシャルル2世のイタリアへの二度目の軍事行動に賛同せず、同じ意見を持つ貴族達と共謀してシャルル2世を打倒しようとした。10月にシャルル2世が死亡した後、共謀した貴族達はシャルル2世の息子に強制して、彼らの権利と特権を承認させた。
ボソはまた、教皇と親密な関係を築き、教皇ヨハネス8世を878年9月トロワまで送った。教皇はそこで西フランク王ルイ2世(吃音王)に対し、イタリアでの支援を要請した。教皇はボソを養子として迎えた。そしておそらく、ルイ2世を皇帝として戴冠することを申し出た。ヨハネス8世はボソを戴冠することを希望していたと言われている[2]。
独立した統治
879年4月、ルイ2世は死に、二人の成人した息子、ルイとカルロマンを残した。ボソは他の西フランク貴族と共に、ルイを単独の王とすることを主張したが、結局ルイとカルロマンの二人が王に選ばれた。しかしボソは、二人の王に忠誠を誓うことを拒否し、「Dei gratia id quod sum(神の恩寵により、それは私自身である)」という形式を用いて、7月に独立を宣言した。ボソは又、皇帝である義理の父が、彼を後継者として指名していたと主張した。879年10月15日、マンタイユ教会会議に集められたローヌ川およびソーヌ川流域の司教・貴族達は、ボソをルイ2世の後継者たる王に選出した。ボソは、以後1世紀以上に渡って西ヨーロッパに出現するカロリング朝以外の王の最初の例となった[3]。この出来事は、フランク族の間での、王の家系を考慮しない自由選挙の最初の出現となった。これは聖職者の選挙における教会法上の原理(不変の慣習ではない)によって示唆させられたものだった。
ボソの王国は、普通はプロヴァンス王国と呼ばれ、アルル、エクス=アン=プロヴァンス、ヴィエンヌ、リヨン(ラングルを除く)、おそらくブザンソンの各大司教管区、そしてタランテーズ、ユゼス、ヴィヴィエの各司教管区から構成された。
ルイ3世とカルロマンの兄弟は880年3月にアミアンで父の王国を分割した後、共同してボソに対して軍を進め、マコンやボソの領地の北方の一部を奪った。また、彼らは東フランク王カール3世とも協力してヴィエンヌを8月から11月まで包囲したが、失敗に終わった。 882年8月、ボソはヴィエンヌにおいて弟オータン伯リシャール(正義公)により包囲され、9月にヴィエンヌはリシャールに占領された。この後、ボソは自領の大部分を回復させることができず、ヴィエンヌ周辺のみにとどまった。
ボソは887年に死去し、息子のルイ(のちの盲目王)が跡を継いだ。
子女
ボソは二度結婚している。最初の妻については未詳。1女がいる。
876年、イタリア王ロドヴィコ2世の娘エルマンガルドと二度目の結婚をした。1男2女がいる。
- エルメンガルド(877年頃 - 935年) - シャロン伯マナセ1世と結婚、ジルベール・ド・シャロンの母
- エンゲルベルガ(877年 - 917年) - アキテーヌ公ギヨーム1世と結婚[4]
- ルイ3世(ルドヴィーコ3世)(盲目王)(880年頃 - 928年) - プロヴァンス王(887年 - 928年)、イタリア王(900年 - 905年)、ローマ帝(901年 - 905年)
脚注
- ^ 彼の母の父ボソの娘で、伯母にあたるテウトベルガは、ロタリンギア王ロタール2世妃となった (Constance B. Bouchard, "The Bosonids or Rising to Power in the Late Carolingian Age" French Historical Studies 15.3 (Spring 1988, pp. 407-431) genealogical table, p.409.
- ^ Caravale, Mario (ed). Dizionario Biografico degli Italiani: LXI Guglielmo Gonzaga – Jacobini. Rome, 2003.
- ^ Bouchard, Constance Brittain (Spring 1988). The Bosonids or Rising to Power in the Late Carolingian Age. French Historical Studies. 15 (3 ed.). Society for French Historical Studies. pp. 407–431
- ^ Riché, Pierre (French). Les Carolingiens: Une famille qui fit l'Europe. Hachette Littérature. p. genealogical table XII (Bosonides). ISBN 978-2010097379
関連項目
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「ボソ (プロヴァンス王)」の例文・使い方・用例・文例
- リボソームの構造は2000年に発表された。
- 首は赤く翼と尾にかけての下部は黄色い北米東部産の大型ハシボソキツツキ
- 米国南西部に産する鳥で、ハシボソキツツキに似ているが頸が赤くない
- リボソームは、タンパク質合成のサイトである
- クォークの中で強い相互作用を中和するゲージボソン粒子
- 粒子間の(非常に弱い)重力相互作用を媒介する、ゲージボソン
- 細胞中で見られるRNA分子(少なくとも20の種類があり、特定のアミノ酸と結合できる各種)で、正しいアミノ酸がタンパク鎖に結合し、そのタンパク鎖は、細胞のリボソームで合成される(mRNAでコード化された指示通りに)
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