リシルド・ド・プロヴァンスとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > リシルド・ド・プロヴァンスの意味・解説 

リシルド・ド・プロヴァンス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/18 06:05 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
リシルド・ド・プロヴァンス
Richilde de Provence
西フランク王妃
西ローマ皇后
877年、継子のルイ2世にレガリアを渡すリシルド
在位 870年 - 877年

出生 845年
死去 910年
キスユラブルグント王国
結婚 870年1月22日エクス=ラ=シャペル
配偶者 西ローマ皇帝シャルル2世
子女 ロチルド
家名 ボゾン家
父親 アルデンヌ伯ビヴィン
母親 リシルド・ダルル
テンプレートを表示

リシルド・ダルデンヌRichilde d'Ardennes)またはリシルド・ド・プロヴァンスRichilde de Provence845年頃 - 910年)は、西フランク王シャルル2世(禿頭王)の2番目の妃。アルデンヌ伯ビヴィンの娘で、プロヴァンス王ボソの妹。ロタリンギアロタール2世の王妃テウトベルガは母方の伯母にあたる。

生涯

869年、シャルル禿頭王はすでに別居していた最初の妻エルマントルド・ドルレアンと死別すると、翌870年1月22日にエクス=ラ=シャペルにおいてリシルドと結婚した[1]。この結婚にはシャルル禿頭王に政略上の利益をもたらした。689年に死去したロタール2世の未亡人テウトベルガの姪と結婚することで、掌握したロタリンギア王国の支配権をより強固にすることが出来たのである。リシルドは夫が戦争で不在の時は国政を担い、夫が877年に死去した時も一時的に国政を預かっている。

継息子のルイ2世が879年に若くして亡くなった際、その2人の息子たちが幼かったことから、リシルドは兄のボソを西フランク王に就けようと画策した。しかし貴族たちはこれに反発し、リシルドとボソの兄妹が近親相姦の関係だと主張して、前王妃リシルドの権威に服することを拒んだ。リシルドはその後、兄がプロヴァンス王となるのを支援した。義理の孫のルイ3世(882年没)とカルロマン2世(884年没)の死後も、再び王国の実権を握ろうとしたため、プロヴァンスへ追放された。

シャルル禿頭王との間に5人の子女をもうけたが、成人したのは娘1人だけだった。

脚注

  1. ^ Charlemagne1



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「リシルド・ド・プロヴァンス」の関連用語

リシルド・ド・プロヴァンスのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



リシルド・ド・プロヴァンスのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのリシルド・ド・プロヴァンス (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS