ヴェネツィア条約とは? わかりやすく解説

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ヴェネツィア条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/21 05:36 UTC 版)

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ヴェネツィア条約
皇帝が教皇に恭順している様子がシエナパラッツォ・パブリック英語版にあるフレスコ画に描写されている。
署名 1177年
署名場所 ヴェネチア
締約国 ローマ教皇アレクサンデル3世ロンバルディア同盟神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世シチリア王国
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ヴェネチア条約: The Treaty or Peace of Venice)は、1177年に、ローマ教皇と同盟国、北イタリアの都市同盟であるロンバルディア同盟神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(赤髭王)との間で結ばれた平和条約である。ノルマン人シチリア王国も交渉に参加して、それにより、条約において、その後の数年間のイタリアでの全ての政治進路が決められた。

この条約は、1176年5月29日に起きてフリードリヒ赤髭王が敗北したレニャーノの戦いの結果を踏まえたものだった。戦いの後、すぐにフリードリヒはアナーニにいたローマ教皇アレクサンデル3世に使節を送り、アレクサンドル3世と自らが擁立した対立教皇カリストゥス3世との分裂(シスマ)を解消するように要請した。予備協定が合意に達した後に、1177年7月の会合が計画された。フリードリヒは、対立した際に権力ある親帝国集団を確保することを期待して、ヴェネチアの対抗勢力に暫定的に干渉した。

7月24日、教皇は、サン・マルコ寺院から、ヴェネツィアの潟の入り口にあるリードにいた皇帝に対し枢機卿の代表団を派遣した。会合でフリードリヒは正式にアレクサンドル3世を教皇として認め、自らが擁立した対立教皇を廃し、枢機卿の代表団は正式にフリードリヒにかけられていた破門を解いた。ヴェネチアのドージェイタリア語版英語版セバスティアーノ・ジアニ英語版アクイレイア大司教英語版ウルリッヒ2世英語版がヴェネチアで皇帝に付き添った。シチリア王国代表は、この場面の目撃証言を残したサレルノ大司教英語版ロムアルド・グアナ英語版アンドリアロジャー伯爵英語版だった。

条約では、皇帝がローマにおける教皇の世俗的権利を認めたが、ローマは教皇に屈服せず、教皇は1179年に退去を余儀なくされた。また、フリードリヒとシチリア王グリエルモ2世との間で15年の平和が締結され、シチリアにおける平和と繁栄の黄金時代への道が開かれた。同様に、ロンバルディア同盟との間に6年の休戦が締結され、一方で、交渉は続き、最終的にフリードリヒは1183年コンスタンツの和議英語版でロンバルディアの独立を認めた。

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