16世紀~17世紀: ミラノ公国の独立喪失
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1499年、フランス王ルイ12世はミラノ公の地位を請求してミラノ公国に進攻(イタリア戦争)、「イル・モーロ」ことミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァと戦った。1508年、ルドヴィーコ・スフォルツァが捕虜となり連れ去られたのち、ルイ12世はミラノとモンツァの公爵となった。1525年のパヴィアの戦いでフランスが皇帝カール5世(ハプスブルク家出身)に敗北すると、フランチェスコ2世・スフォルツァ (it:Francesco II Sforza) がミラノ公に復帰した。イタリアではスペインの勢力が伸長した。 1526年、ミラノの知事にして皇帝軍の司令官であるアントニオ・デ・レイバ (Antonio de Leyva) によってモンツァは包囲され、1527年にその略奪をうけた。同年、坑道の爆発によってモンツァ城が破損を受けている。アントニオ・デ・レイバは1529年にモンツァの領主となった。1530年、カール5世はボローニャ会議(1529年 - 1530年)の後、鉄王冠を戴いた。 1535年、フランチェスコ2世・スフォルツァは相続人がないまま没し、ミラノ公位の継承問題が発生した。1537年から1557年にかけて、ルイージ・デ・レイバによって実効支配された。デ・レイバ家出身で、Suor Virginia Maria、あるいは「モンツァの修道女」 (it:Monaca di Monza) の名で知られるマリアンナ・デ・レイバ(1575年 - 1650年)は、修道女の身でありながら道ならぬ恋に落ち、教会から終身刑の処分を受けた人物で、その生涯は19世紀の小説家アレッサンドロ・マンゾーニの作品『いいなづけ』 I promessi sposi をはじめ、多くの作品に描かれている。 1630年にはペストが流行して人口と経済の両面で危機に瀕した。1648年にモンツァとその領域は、ミラノのドゥリーニ家 (it:Durini) の所有となる。 モンツァを含むミラノ公国は、18世紀前半までスペイン王の支配下に置かれることになる。17世紀まで、(イタリア全体がそうではあるが)この地域の経済力は大きく低下していた。
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