戦時下のフランス領インドシナ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 14:37 UTC 版)
「仏印進駐」の記事における「戦時下のフランス領インドシナ」の解説
詳細は「第二次世界大戦下のフランス領インドシナ(英語版)」を参照 フランス領インドシナは本国から遠く、軍備も極めて弱体であった。しかも本国がドイツに敗れたため、独力で植民地を維持することは困難であった。そのため多くの植民地がヴィシー政府から自由フランス支持に転向していった。ヴィシー政府および植民地政府は植民地を維持するため、日本と協力する道を選んだ。 また日本側も植民地政府を温存する方針をとり、1941年11月6日の大陸指991号、11月15日の「対英米蘭蔣戦争終末促進に関する腹案」による大本営政府連絡会議の決定でも確認されている。この方針は「大東亜戦争(太平洋戦争)」の目的であるとされた植民地支配からの「大東亜解放」とは矛盾した方針であったが、陸軍は「人種戦争の回避」という方針のためであるとして対応した。 この協力関係はフランス領インドシナ政府側にとって不利ばかりではなく、経済面では有利に運ぶこともあった。独立運動家にとっては日本軍の登場は新たな支配者の出現であり、現代のベトナムでは「一つの首に二つの首枷(ベトナム語:"một cổ hai tròng")」と評されている。
※この「戦時下のフランス領インドシナ」の解説は、「仏印進駐」の解説の一部です。
「戦時下のフランス領インドシナ」を含む「仏印進駐」の記事については、「仏印進駐」の概要を参照ください。
- 戦時下のフランス領インドシナのページへのリンク