戦時下の500形
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/18 12:12 UTC 版)
「京都市交通局500形電車」の記事における「戦時下の500形」の解説
1930年代後半に入って戦時体制が急速に強化され、京都市内においても軍需工場が建設されるようになった。また、燃料統制によってバス路線が削減されると、その分の利用者も市電にシフトするようになった。こうしたことから、当時の京都市電唯一の大型車である500形は久しぶりに大量輸送に活躍する機会を与えられた。ところが、太平洋戦争末期の1945年に500形のラストナンバーである540号が貨物電車に改造され、同年4月5日から京阪京津線~石坂線に乗り入れるようになった。540号が選ばれたのは、1936年に主電動機を東洋電機製造社製のものに換装し、ギア比も高く改造されていたためであった。その改造内容であるが、同車の屋根及び座席を撤去し、運転台と車内の間に仕切りを設け、ハンドブレーキを設けるというものであった。539号も同様の改造を受ける予定であったが、実施されなかった。 その貨物の内容であるが、往路は京都市民の排泄物を石坂線沿線の農家に運び、帰路は農産物を京都市内に運ぶというものであった。当時は京都市内における下水道普及率も低く、1939年に鳥羽処理場(現在の鳥羽水環境保全センター)の運転が開始されると、1934年に開業していた吉祥院処理場(現在の吉祥院水環境保全センター)の運転が20年近く休止されるなど、下水処理は汲み取りが主体であった。そこで、汲み取った排泄物を有効活用し、食糧増産に役立てるべく輸送手段を確保するために東山三条に渡り線を設け、市電と京津線の貨物電車が乗り入れを開始した。しかしながら京津線の急勾配は500形にとって苦しいものがあり、主電動機の過熱を防ぐために四宮駅で長時間停車を余儀なくされた。このし尿運送は1946年8月まで実施され、終了後540号は復元改造を実施された。 この他にも、514形の2段引戸を2枚折戸に改造したが、戦後に従来の2段引戸に復旧され、同時に自動ドアに改造された。また、塗色も600形と同じ濃いベージュとグリーンのツートンカラーに変更された。また、600形登場後、伏見線の勧進橋以北と稲荷線の軌道中心間隔が拡幅されたことから、同区間に500形も入線するようになった。そして戦後に勧進橋以南の軌道中心間隔拡幅工事が実施されると、500形は他形式同様中書島までの乗り入れを実施した。
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