拡大するソビエト赤軍の攻勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/09 08:08 UTC 版)
「ウラヌス作戦」の記事における「拡大するソビエト赤軍の攻勢」の解説
ソビエト赤軍がスターリングラードで11月20日に攻撃を開始する間、ドイツ第6軍北方に配置されていたソビエト第65軍はドイツ第11軍団に圧力をかけていた。一方、ソビエト第3親衛騎兵軍団がドイツ軍後部に回りこむ間に、ソビエト第4戦車軍団はドイツ第11軍団を通り越して進撃していた。ドイツ第376歩兵師団とオーストリア第44歩兵師団は配置転換されたが、燃料が欠乏したため、その多くが失われた。 ソビエト赤軍の怒涛の攻撃による損害に苦しまされつつも対戦車砲兵隊が踏ん張り、第14装甲師団の残存部隊はソビエト第3親衛騎兵軍団の側面を撃破した。2日末までに、ソビエト第26戦車軍団がスターリングラード北西130kmにあるペレリゾフスキー(Perelazovsky)の町を占領していた。その一方で、ソビエト第1戦車軍団は退却していたドイツXLVIII装甲軍団を追撃していた。 ドイツ軍はソビエト赤軍に最大50kmの侵攻を許したまま、戦いは11月21日も続いた。この時までにソビエト赤軍がドイツ第4装甲軍と第6軍の側面を包囲しつつあり、北方のルーマニア残存部隊は包囲され殲滅され、短時間の反撃を行ったドイツ第22装甲師団は、戦車中隊と同じようなレベルの戦力と化し、南西に撤退せざるを得なくなった。一方、ソビエト第26軍団はルーマニア第1装甲師団の大部分を撃破、その他の敵軍を無視して南東に進撃していた。ルーマニアV軍団は再編成を行って緊急の防衛線を築き、ドイツXLVIII装甲軍団の支援を仰いだ。 その日、ドイツ第6軍司令官フリードリヒ・パウルスはソビエト赤軍が司令部から約40km未満まで進撃しているという報告書を受け取ったが、すでに第6軍には防衛にまわす予備戦力が存在しなかった。南方では短時間の停止の後、ソビエト第4機械化軍団がスターリングラード方面へ北上を開始、いくつかの町をドイツ軍から奪取した。 スターリングラード内外のドイツ軍の状況が悪化していたが、ヒトラーは「全周囲防衛地区」を形成し、ドン川とボルガ川の間を「スターリングラード要塞」とするよう命令、これは第6軍が脱出する望みを奪うものとなった。ドイツ軍、ドイツ同盟軍らが苦戦している間、第6軍とは別に第4装甲軍も増加するソビエト軍の包囲にさらされつつあり、第16装甲擲弾兵師団がその出口を形成すべく、激戦を交わしていた。しかし、ドイツ軍南方を攻撃していたソビエト赤軍装甲部隊は歩兵部隊との連携がうまくいかず、ルーマニア第4軍の脱出を許すこととなった。 11月22日、ソビエト赤軍はドン川を横断、カラチ方面へ進撃を続けていた。カラチに駐屯していたドイツ軍部隊は、補給、整備を行う部隊がほとんどであり、なおかつ11月21日までソビエト赤軍の攻撃を知らなかった、さらに、そのソビエト赤軍の戦力も不明であった。カラチの橋を奪取する作戦は第26戦車軍団が担当し、橋への接近には捕獲した2両のドイツ戦車と偵察車両を使用、午前中にカラチを奪取して、ドイツ軍を排除した。そして、第26戦車軍団と第4戦車軍団は南から北上している第4機械化軍団と合流した。1942年11月22日、スターリングラードに存在したドイツ軍は、ソビエト赤軍に完全包囲された。 その日、ソビエト赤軍は、包囲していたルーマニア第5軍団との戦いを続けていた。 翌日、ドイツ軍は包囲を解くために局所へ無駄に戦力を投入したため、戦いは続いた。この時までに包囲されていたドイツ軍、ドイツ同盟軍将兵はソビエト赤軍の装甲部隊から逃げるために、スターリングラードへ退却、その一方で、なんとか包囲を脱出したものは西方へ退却した。
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