拡大と分割
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 01:24 UTC 版)
ナバラ王の称号を初めて用いたのはアバルカというあだ名のあるサンチョ2世で、970年から994年までナバラ王及びアラゴン伯としてパンプローナを治めた。アラゴンの谷は母親から相続した。ハイメ・デル・ブルゴ(Jaime del Burgo)の『ナバラの概略史』によると、パンプローナ王が987年にアラスチュの邸宅をサンファン・デ・ラ・ペーニャに寄贈した際に、ナバラ王という称号をはじめて使用したという。「ナバラ王」を名乗った最初の王とされることが多いが、3人目とされることもある。 サンチョ2世と次代の王の治世下、ナバラ王国は最大勢力に達した。サンチョ3世(サンチョ大王、在位:1000年 - 1035年)はカスティーリャ伯領の女子相続人ムニアドナと結婚した。その結果、ナバラ王国は当時のイベリア半島のキリスト教圏の大部分を支配し、その勢力圏は最大に達した。その後王国はレオン王国に属していたピスエルガ及びセアを制圧し、カスティーリャを得て、ガリシア国境からバルセロナまでの間を支配した。 大王の死後、領地は4人の息子に分割相続された。領土は再度ナバラ、カスティーリャ、アラゴンに分かれたが、それぞれの地域をナバラのヒメノ王家が治めた。しかしその後(フェルナンド・カトリック王までは)大王の領土は融合することなく、カスティーリャはレオンと連合し、アラゴンは領土を拡大し、政略結婚を通じてカタルーニャと連合した。
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