拡大と競争、1860年–1880年とは? わかりやすく解説

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拡大と競争、1860年–1880年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 23:14 UTC 版)

氷貿易」の記事における「拡大と競争、1860年–1880年」の解説

19世紀半ば以降氷の国取引は盛んであったが、かつてのニューイングランド起点とする交易ではなくなりつつあった。アメリカからの氷の輸出ピーク達したのは1870年であり、当時港から出荷される氷は65,802ショートトン金額にして267,702ドル2010年461ドルに相当)にのぼったこうした変化要因ひとつとして少しずつではあったが、インド人工氷が普及し始めた点が挙げられるニューイングランドからインドへの氷の輸出ピーク1856年であり、146千ショートトン出荷された。天然氷市場としてのインド地位1857年インド大反乱大きく揺らぎアメリカで南北戦争勃発すると、さらにその地位下落したインドの氷の輸入1860年代以降次第衰退していった。イギリスの王海軍により世界中製氷機持ち込まれたことに誘発されるように、1874年にはマドラスにインターナショナル・アイス・カンパニーが、1878年にベンガル・アイス・カンパニーが設立された。これらの会社はカルカッタ・アイス・アソシエーションとして協同し現地市場から瞬く間天然氷駆逐した氷貿易ヨーロッパで発達した1870年ごろには、スイスグリンデルワルトに近い氷河から切り出す仕事数百人もの人間雇用されていた。フランスパリは、1869年にはヨーロッパ諸国からの氷の輸入始めている。一方で国際的な氷の市場にはノルウェー参入し、とくにイギリス向けに特化して取り組みはじめたノルウェーからイギリスへ最初の氷の出荷1822年だが、より大規模に輸出が行われるのは1850年代になってからである。氷の収穫場所は、はじめ西海岸フィヨルド中心であったが、輸送機関未発達であったため、ノルウェー国内林業海運業盛んな南部および南東部沿岸地域貿易の中心になった。どちらの産業も氷の貿易には欠かすことができなかったのである1860年代はじめには、外国人実業家ノルウェーのオッペゴール湖を購入しニューイングランド有名な産地と同じ名前の「ウェナム湖」に改名したうえで、氷を「ウェナム湖氷」と称してイギリスへ輸出した。はじめこれらの交易イギリス産業界によって行われていたが、次第ノルウェー会社主導するようになったノルウェー産の氷は、鉄道網発達にも助けられイギリス全土流通した一方で漁港であるグリムズビーロンドン間で1853年鉄道開通したことで、首都新鮮な輸送するための氷の需要高まったアメリカ東部における氷の市場もまた変化していた。ニューヨークボルチモアフィラデルフィアなどの諸都市19世紀後半人口急増しており、例えニューヨーク1850年から1890年の間に人口が3倍になっていた。そのため、この地域一帯では氷に対す需要一気高まった1879年には、東部都市家庭一年消費する氷の量は3分の2ショートトン達しており、100ポンド45キログラム)あたり40セント(9.3ドル)を支払っていた。ニューヨーク市内の消費者に氷を配達するため1,500台もの荷馬車必要だったこうした需要をみたすため、氷貿易中心地マサチューセッツ州からさらに北のメイン州に移るまで時間はかからなかった。これにはさまざまな要因があった。ニューイングランドの冬は19世紀温暖化進んだうえに、工業化によって天然の池や河川汚染生じたからである。アメリカ西部取引をするための選択肢広がりボストン産の氷を輸出して事業としては儲からなくなっていったことから、ニューイングランド経由する取引衰退していった。さらにこの地では森林伐採進んでいたため、船舶建造費も上昇していた。最後に1860年にはハドソン川流域暖冬により最初の氷飢饉英語版)が起こりニューイングランド産の氷はその在庫払底したことで値上げ余儀なくされた。 1861年にはアメリカで南北戦争勃発し、この流れ拍車かかった内戦によって北部から南部に氷を売ることは難しくなり、メイン州貿易商かわりに北軍に氷を供給した北軍兵士南へ行軍する際に氷を携行し消費したのであるジェームズ・L・チーズマンは1860年に氷飢饉起こった際に、自分事業拠点ハドソンから北のメイン州移し同時に最新技術手法をこの地に持ち込んだ。チーズマンは内戦のあいだ北軍とは有利な契約交わし続けたカレー製氷機ニューオーリンズにも運び込まれ南部とりわけ病院における氷不足への対応が進んだ戦後には、こうした製氷機いくつもつくられたが、北部産の氷との競争再開すると、このころはまだ天然氷のほうが安く人工氷を生産して利益を出すことは難しかった。しかし生産効率向上したことで、1870年代後半には天然氷南部市場から締め出されてしまった。 1870年にはまた氷飢饉発生しボストンハドソン川流域の産業影響与えたが、1880年にも同じ事態続いた結果として事業者たちは、代替となる水源メイン州ケネベック川求めたそれ以降19世紀通して、特に暖冬の際に、ケネベック川とペンボスコット川、シープスコット川は広く産業のために利用され重要な水源となった1860年代には、天然氷シカゴ冷凍加工された肉をはじめとしてアメリカ西部から東部へと商品輸送するために使われることが非常に多くなった。はじめは家畜運搬車両の所有者東部食肉処理業者からいくらか反対の声があがったものの、彼らは敗者として業界から去っていった。結局1870年代には、東部行の貨物列車一日に何便もでるようになった低温保存したバターアメリカ中西部からニューヨーク入りヨーロッパまで輸出された。1870年代にはイギリス消費されるバター15パーセントがこのルート輸入されたものだったシカゴオマハユタ[要曖昧さ回避]、シエラネバダ山脈では氷を補給する駅が中継点として整備され冷蔵車鉄道網を介して大陸横断できるようになった。さらに、サザン・パシフィック鉄道開通し、氷業者シエラネバダ山脈からカリフォルニアに氷を運べるようになると、これがアラスカ氷貿易にとって命取りとなったアラスカにおける氷産業は、1870年代から1880年代にかけて競争晒され結果壊滅状態に陥ってしまい、またその過程地場製材業まで破壊されてしまった。 1870年代には、ベル・ブラザーズ社のティモシー・イーストマンによって、アメリカ食肉イギリス輸送するために氷が活用され始めた最初積荷が無事1875年届けられたことで、翌年までに9,888ショートトンの肉が輸送された。冷蔵された肉は、そのための施設そなえた倉庫店舗小売りされた。イギリスでは、アメリカの肉があちこち出回ることで、国内農家打撃を受けるという懸念もあったが、それでも輸出止まることはなかった。シカゴ拠点にする食肉会社であるアーマースウィフト(現JBS USA)も1870年後半に、この冷蔵肉の輸送事業参入した両者自社冷蔵車保有し、氷の補給ネットワークなどのインフラ整備することで、アメリカ東海岸でのシカゴ冷蔵肉の売り上げ伸ばした1880年には年間15,680ショートトンだったものが、1884年には年間173,067ショートトンにも達した天然氷流通は、19世紀半ば開国した日本にも及んだ当時日本に氷を生産輸送する能力はまたなかったため、アメリカボストンから天然氷輸入しており、ボストン氷呼ばれていた。これに対して日本での天然氷採集販売業乗り出したのが中川嘉兵衛で、各地で氷の採集試み最終的に函館五稜郭から切り出した氷を輸送して販売成功した。この氷を函館氷称して販売しボストン氷に対して販売競争打ち勝つことになった一方関西中心に販売したのが山田啓助で、後に中川嘉兵衛事業継承して発展していくことになった

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