拡大と競争、1860年–1880年
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「氷貿易」の記事における「拡大と競争、1860年–1880年」の解説
19世紀の半ば以降も氷の国際取引は盛んであったが、かつてのニューイングランドを起点とする交易ではなくなりつつあった。アメリカからの氷の輸出がピークに達したのは1870年であり、当時港から出荷される氷は65,802ショートトン、金額にして267,702ドル(2010年の461万ドルに相当)にのぼった。こうした変化の要因のひとつとして、少しずつではあったが、インドで人工氷が普及し始めた点が挙げられる。ニューイングランドからインドへの氷の輸出のピークは1856年であり、14万6千ショートトンが出荷された。天然氷の市場としてのインドの地位は1857年のインド大反乱で大きく揺らぎ、アメリカで南北戦争が勃発すると、さらにその地位が下落した。インドの氷の輸入は1860年代以降、次第に衰退していった。イギリスの王立海軍により世界中に製氷機が持ち込まれたことに誘発されるように、1874年にはマドラスにインターナショナル・アイス・カンパニーが、1878年にベンガル・アイス・カンパニーが設立された。これらの会社はカルカッタ・アイス・アソシエーションとして協同し、現地の市場から瞬く間に天然氷を駆逐した。 氷貿易はヨーロッパでも発達した。1870年ごろには、スイスのグリンデルワルトに近い氷河から雪を切り出す仕事に数百人もの人間が雇用されていた。フランスのパリは、1869年にはヨーロッパ諸国からの氷の輸入を始めている。一方で国際的な氷の市場にはノルウェーが参入し、とくにイギリス向けに特化して取り組みはじめた。ノルウェーからイギリスへの最初の氷の出荷は1822年だが、より大規模に輸出が行われるのは1850年代になってからである。氷の収穫場所は、はじめ西海岸のフィヨルドが中心であったが、輸送機関が未発達であったため、ノルウェー国内で林業と海運業が盛んな南部および南東部の沿岸地域が貿易の中心地になった。どちらの産業も氷の貿易には欠かすことができなかったのである。1860年代のはじめには、外国人実業家がノルウェーのオッペゴール湖を購入し、ニューイングランドの有名な産地と同じ名前の「ウェナム湖」に改名したうえで、氷を「ウェナム湖氷」と称してイギリスへ輸出した。はじめこれらの交易はイギリス産業界によって行われていたが、次第にノルウェーの会社が主導するようになった。ノルウェー産の氷は、鉄道網の発達にも助けられてイギリス全土に流通した。一方で漁港であるグリムズビーとロンドン間で1853年に鉄道が開通したことで、首都に新鮮な魚を輸送するための氷の需要が高まった。 アメリカ東部における氷の市場もまた変化していた。ニューヨーク、ボルチモア、フィラデルフィアなどの諸都市は19世紀後半に人口が急増しており、例えばニューヨークは1850年から1890年の間に人口が3倍になっていた。そのため、この地域一帯では氷に対する需要が一気に高まった。1879年には、東部の都市の家庭が一年に消費する氷の量は3分の2ショートトンに達しており、100ポンド(45キログラム)あたり40セント(9.3ドル)を支払っていた。ニューヨーク市内の消費者に氷を配達するため1,500台もの荷馬車が必要だった。 こうした需要をみたすため、氷貿易の中心地がマサチューセッツ州からさらに北のメイン州に移るまで時間はかからなかった。これにはさまざまな要因があった。ニューイングランドの冬は19世紀に温暖化が進んだうえに、工業化によって天然の池や河川の汚染が生じたからである。アメリカ西部と取引をするための選択肢も広がり、ボストン産の氷を輸出しても事業としては儲からなくなっていったことから、ニューイングランドを経由する取引は衰退していった。さらにこの地では森林伐採も進んでいたため、船舶の建造費も上昇していた。最後に1860年にはハドソン川流域の暖冬により最初の氷飢饉(英語版)が起こり、ニューイングランド産の氷はその在庫が払底したことで値上げを余儀なくされた。 1861年にはアメリカで南北戦争が勃発し、この流れに拍車がかかった。内戦によって北部から南部に氷を売ることは難しくなり、メイン州の貿易商はかわりに北軍に氷を供給した。北軍の兵士は南へと行軍する際に氷を携行し消費したのである。ジェームズ・L・チーズマンは1860年に氷飢饉が起こった際に、自分の事業拠点をハドソンから北のメイン州に移し、同時に最新の技術や手法をこの地に持ち込んだ。チーズマンは内戦のあいだ北軍とは有利な契約を交わし続けた。カレーの製氷機はニューオーリンズにも運び込まれ、南部のとりわけ病院における氷不足への対応が進んだ。戦後には、こうした製氷機がいくつもつくられたが、北部産の氷との競争が再開すると、このころはまだ天然氷のほうが安く、人工氷を生産しても利益を出すことは難しかった。しかし生産効率が向上したことで、1870年代後半には天然氷は南部の市場から締め出されてしまった。 1870年にはまた氷飢饉が発生し、ボストンとハドソン川流域の産業に影響を与えたが、1880年にも同じ事態が続いた。結果として事業者たちは、代替となる水源をメイン州のケネベック川に求めた。それ以降19世紀を通して、特に暖冬の際に、ケネベック川とペンボスコット川、シープスコット川は広く氷産業のために利用され、重要な水源となった。 1860年代には、天然氷がシカゴで冷凍加工された肉をはじめとしてアメリカ西部から東部へと商品を輸送するために使われることが非常に多くなった。はじめは家畜運搬車両の所有者や東部の食肉処理業者からいくらか反対の声があがったものの、彼らは敗者として業界から去っていった。結局1870年代には、東部行の貨物列車が一日に何便もでるようになった。低温で保存したバターはアメリカ中西部からニューヨークに入り、ヨーロッパまで輸出された。1870年代にはイギリスで消費されるバターの15パーセントがこのルートで輸入されたものだった。シカゴ、オマハ、ユタ[要曖昧さ回避]、シエラネバダ山脈では氷を補給する駅が中継点として整備され、冷蔵車が鉄道網を介して大陸を横断できるようになった。さらに、サザン・パシフィック鉄道が開通し、氷業者がシエラネバダ山脈からカリフォルニアに氷を運べるようになると、これがアラスカの氷貿易にとって命取りとなった。アラスカにおける氷産業は、1870年代から1880年代にかけて競争に晒された結果、壊滅状態に陥ってしまい、またその過程で地場の製材業まで破壊されてしまった。 1870年代には、ベル・ブラザーズ社のティモシー・イーストマンによって、アメリカの食肉をイギリスに輸送するために氷が活用され始めた。最初の積荷が無事1875年に届けられたことで、翌年までに9,888ショートトンの肉が輸送された。冷蔵された肉は、そのための施設をそなえた倉庫や店舗で小売りされた。イギリスでは、アメリカの肉があちこちに出回ることで、国内農家が打撃を受けるという懸念もあったが、それでも輸出が止まることはなかった。シカゴを拠点にする食肉会社であるアーマーとスウィフト(現JBS USA)も1870年の後半に、この冷蔵肉の輸送事業に参入した。両者は自社の冷蔵車を保有し、氷の補給ネットワークなどのインフラを整備することで、アメリカ東海岸でのシカゴの冷蔵肉の売り上げを伸ばした。1880年には年間15,680ショートトンだったものが、1884年には年間173,067ショートトンにも達した。 天然氷の流通は、19世紀半ばに開国した日本にも及んだ。当時の日本に氷を生産・輸送する能力はまたなかったため、アメリカのボストンから天然氷を輸入しており、ボストン氷と呼ばれていた。これに対して日本での天然氷採集・販売業に乗り出したのが中川嘉兵衛で、各地で氷の採集を試み、最終的に函館の五稜郭から切り出した氷を輸送して販売に成功した。この氷を函館氷と称して販売し、ボストン氷に対して販売競争で打ち勝つことになった。一方関西を中心に販売したのが山田啓助で、後に中川嘉兵衛の事業も継承して発展していくことになった。
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